蝶番
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春の初めの風が吹くころ、
湿りを帯びた土から青臭い草々が背伸びをしだした頃の話だった。
根こそぎの冬は去り、何もかもを失ってそれでも春は来た。
土ごと燃やしつくされ清められた大地を緑が覆い、廃墟のここそこに揺れる花があっても、
それでも帰ってこなかった人達がいた。
緑もいまだ覆うことをためらう、黒く腐食した大地。
その黒い傷を背負い、渦巻く怨嗟に身を焼きながら生きることを彼女は選んだ。
死ぬ方が楽なことなどこの世界にはいくらもあった、
それでも生きなければと身を震わせながらつぶやいた、姿を忘れまい。
そうして自分も。
彼女を生かすことは罪だったろうか、死ぬ方が楽なことなど彼女にはいくらもあったことは知っていた。
それでも彼女を生かした事は罪だったろうか?
行く道は煉獄の炎に焼かれ、彼女はその贖罪の道を裸足で行くのに。
幾度目かの問いかけをまた一蹴する。
生きることが罪であるものか、生きてゆくことが罪であるものかと。
あの微笑が…
誰かに叫んで、また眼がさめた。
その声は、高い空から降るかのよう、硬く澄み切って、とても、静か。
「朝食の支度をしたい」
かけられた言葉は端的だった。
答えは聞かずに立ち去ってゆく、踵を返した後ろ姿を春の光が柔らかく縁取った。
彼の真っ白なシャツが、薄い羽のように揺れた。
叫びを聞かれただろうか。いや、いつだって誰にも届かずに消えてゆく叫びだ、今日に限って聞かれるはずもなく。
布団を出て後を追えば、湿った春の風が喉元を冷やした、
その風の中を白い蝶がもつれるように二頭飛んで草叢に落ちてゆく。
先を行く背中と、白いシャツの結われた左袖は、その羽根のようにはかなく揺れる。
駆け足で並んだのはそこが寒そうだったから、だから、そこになってしまいたかったから。
味見をしなければと思えば小皿は突き出され、火を止めれば椀はそこにある。
言葉数の少ない男はあの戦争から一層無口になった。
自分が相手では仕方ないと諦めてはいる、
ただ、苛立ちや憎しみがあるのならそれは自分にぶつけてほしいと願った。
優しさと同情をどうかあの少女に。
彼女は悲しそうに微笑んで俯くだろうけれど、ぬくもりは伝わるはずだから。
それはもう自分には出来ないのだ、彼女を生かしたくせに。
左胸が痛むと左腕も痛むのは、浸食が進んでいるせいなのだろうか。
しくしくと痛む、その痛みが悲しみに思えて笑みがこぼれた。
自嘲の笑み。何を悲しむ権利があるというのだお前に。
人を殺させ煉獄を歩かせ、それでも生きろとのたまった。
彼女にとって己は災厄でしかない、善人の顔をした悪魔め、貴様が彼女から幸福の一切を奪った。
……それでも生きていてほしかった、彼女に。
春に咲く花の名前の少女、いつか花のように咲う日が来てくれればいい。
そのためにこの体を捧げてもいいだろうか。やさしい姉のくれた、まがいものの、でも真正の命。
ごめんなさい、少ししか保たせられない出来の悪い弟で。
熱くなった目頭を冷やそうと、よろけながら廊下に出た。
庭は春。柔らかな日差しと、どこかから早咲きの沈丁花の香りがする。
苔の緑と新緑の輝き、まるで天国のような、その中で彼女が生きてゆくことを望んだ。
それ以外は何もいらないから、そう望んだ。
どうか幸せであるように、祈る時いつも痛みをこらえるように左腕を抑える、そんな癖がいつついたのか自分でもわからなかった。
「冷えるだろう」
かけられる言葉はいつも端的だった。
無表情にほんの少しだけ呆れたような色を淡くにじませて立っている。
上着をかけられる。いつも片手で器用なものだ。
「朝食も冷める、早く食べてしまえ」
男には何も伝えていないのに、食事の量はかなり減らされていた。
気が付いているのだろう、でも口に出しはしない。
鼻先を真っ白な蝶が二頭、かすめて飛んでゆく、
飛んでゆくように墜落してゆく。羽は朽ちてぼろ布の様だった。
春に生まれた蝶は春を越さない。
ひどく美しい春の朝だった、だからその日、伝えようとごく自然にそう思った。
「アーチャー、俺はもう長くない」
すでに悟っているだろう、身分不相応の報いが来ていることは。
何も言わずに箸を置き、まっすぐにこちらの目を見た。
この眼がずっと苦手だった、心の奥の奥まで見透かされる、夕暮色の瞳。
それに今はひどく安堵した、俺がいなくなってもこいつはいてくれる、俺のしたかったことを、分かってくれる。
「桜を支えてやってほしい」
それだけが、たった一つだけの…
「断る」
言葉はいつも端的だった。この上もなく。
「な、んでだよ?」
断られると、考えていなかった。
二三の小言、渋い顔。そしてやがて許されると、俺は甘えていたのかな?
お前だけにはなんて、分かってもらえるだろうなんて。
「頼む、頼むから…桜を」
「くどいぞ」
渋い、顔をして。
「何故お前は……こうも察しが悪いのだろうな」
呆れた声で。
「私も、春は越せない」
風がそよいで行った。花の香りが微かに混じって、焼けた土のにおいを忘れさせようとする。
春に咲いた花は種を結び、また巡り来るいつかの春に花を咲かせるだろう。
けれど春に生まれた蝶は、春を越さずに死ぬ。
少し寂しいような、いつもの瞳をして。
「霊核が保たん」
言葉はいつも端的だった。
「桜には凛がいる、支えあって生きてゆくだろう、幸せになる」
「なんで…」
「なぜ、凛のサーヴァントである俺がここに居ると考えていたんだ、馬鹿もの」
馬鹿もの、の言葉は、いつも殊更に優しかったから好きだった。
「お前と死にたかったんだ、馬鹿ものめ」
もうほとんど食べるものを受け付けなくなった身体のための膳は、椀が二つと湯飲みだけ。それは彼も同じ。
食事など必要ないと、言った言葉を馬鹿みたいに信じていた。
「馬鹿もの」
腕を引かれて、胸に顔を寄せた。
「大馬鹿もの」
春を越さない蝶が二頭、春風に乗って、春風に乗って高く高く飛んで消えた。
或る美しい、春の朝の話だった。
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