はるさきのとり
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もう、わからないの。
あれは冬がぬるんだ晴れの日の記憶。
その黒い生き物が、私には最初何だかわからなくて、
そして最後までわからないまま。
わからないままいかせてしまった。
ああ、神様なんて信じまい。
努力が報われるのが、本当の、ハズよ。
すがった手を、取るのが遅すぎる神様にすがるなんて。
同情なんかしているんじゃないの、私は、怒っているのよ。
もう、永遠にわからない。
最近遠坂は変な感じだ。
俺の、普段遠坂を怒らせてばかりの感性にも響くから、多分きっと。
今朝もやってきて、朝飯喰って、美綴と約束があると出てった、いつものように。
でもそのいつもが、いつもじゃない。最近の遠坂はそんな感じだ。
俺の、普段遠坂を苛立たせてばかりの思考が答えを出すより早く、桜がエプロンで手を拭きながら振り返る。
「先輩、姉さんにお弁当渡して下さいませんか?」
縮緬のハンカチで包まれた小振りの弁当箱は、まだ少し温かい。
俺が困った顔をするのを見て、桜は微笑んだ。
「美綴先輩と会うのは嘘です、先輩は昨日風邪で早退なさいました」
ほの暖かい春先の風が、すういと吹いた。
「朝ご飯を食べていかれたのは、姉さん流の意地の張り方です」
私は洗い物を済ませてからいきますから、ね、どうかお先にと桜は笑う。
「意地っ張りな人なんです、先輩、どうにかしてあげて下さい」
桜のつぼみが色づく春先のことだ。
とても不思議そうに、自分の胸を見たと士郎が言ってた。
きっと赤い血が流れた事を不思議に思ったんだろう。
そして私の小剣を、
小さな、けれど”確実に生き物を殺す”道具を。
あんたなんか、あんただって、殺せば死んでしまう、神様の小さな愛玩具だったのよ。
あんたが望んだように。
今朝はマウンテンバイクを出した。
まだ早いから生活指導も校門にはいまい、春の風は当たれば暖かいが切れば冷たい。
薄着をしすぎた首元に風が飛び込んでは飛び立ってゆく。
桜が言うには、遠坂は多分屋上にいるだろうとのこと。
高いところが好きだから、うましかじゃなくて猫のほうだ。
春の日は、ただ浴びていれば暖めるのに走り出せば冷やす。
もう昔過ぎて忘れてしまったわ。
私が忘れたように、あんたも忘れたんでしょう。
でも形があるものは残るのよ。
あの小剣のように、
時に血を流して思い出させてくれる。
思い出したのに、もう永遠にわからない。
春先の風の中に遠坂はいる。
いつだってそうだ、きっと永遠にそうだ。
俺は死んでも思い出すだろう、軽やかに一歩先を行くその揺れる黒髪。
だから抱きしめてあげてくださいね、と桜は言う。
風に連れられて、飛んでいってしまわないように。
「遠坂!」
見ようによっては、飛び立つ風を待つようにフェンスから乗り出した背中に叫ぶ。
「弁当!」
振り返ったからセーフと決めて走った。
何がセーフかって言うと、近づいても殴られないってことだ。
「弁当!あと、どこにも行くな!」
抱きしめた体はやはり細くて、風に乗るに充分の軽さ。
遠坂は肩で風切ってゆくけれど、頑張って踏ん張ってることぐらい俺にだってわかる。
抱きしめているから、風に攫われて飛んでいかないように。
「…ば…かぁ士郎っ…!」
ぎゅっと胸に抱いているから、泣き顔が見えないように。
私は今春を見る、いつかあんたを見失った春をまた見る。
当然だと思っていたモノを失った春だから、今度はもう無くさない。そのためにぎゅっと抱きしめ返す。
もうわからないから、もう忘れてしまうわ。
あんたを好きだった事なんて。
もう、昔過ぎるから、忘れてしまうわ。
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