蝶番
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プレゼント
「バゼットぉー、帰ってるかぁー?」
エントランスから聞こえてきた声に、バゼットは本から顔を上げた。
体を起こして、ソファーの背越しに見やると、ちょうど入ってくる所。
「ただいま」
「おかえりなさい、どうでしたか」
問いかけに、アンリは手に持った箱を少し上げてみせた。
「あきれた・・・もう遣ってしまったんですか?」
「もともとこれが目当てだったからな、高ぇ買い物だったけど」
アンリがバゼットにアルバイトの許可を求めたのは半月ほど前のことだ。
渋るバゼットであったが、
『俺にも物欲に起因する労働意欲ってのが芽生えたんだよ』
との主張に折れ、今日まで成り行きを見守っていたのだった。
さて、アンリの持ってきた箱は、底面積30センチメートル×20センチメートル、高さは5センチほどのごく浅いものだ。
造りの良い真っ黒な箱、掛かっている茶色のリボンは本サテン、蓋の端にさりげなく、しかししっかりと主張する刻印。
「また服ですか?」
「ああ」
アンリはその基本となった人物と異なり、ファッションにこだわりをみせる。
・・・と言うか、ミーハーなのだ。話題のスイーツやら、今期の新製品やらをチェックしてはすぐに飽きて、主に衛宮家に放り出す。
衛宮家での通称は”ブラックサンタ”であるとかないとか。
「服なら私が買いますよ」
「いや、それじゃあ意味無いから」
「?」
はて、この悪魔に無職を反省するような素直さが欠片ほどでも存在したろうかとバゼットは考えを巡らした。
アンリはさっさと暖炉の前に座り込むと、バゼットを呼ぶ。
「なんですか」
「早く来てくれよ、これ、俺のじゃなくてバゼットのなんだ」
(・・・・・・えーと)
「え・・・えぇ・・・?」
「ほら早く」
手を引かれて、アンリのとなりに座る。頭の中がぐるぐるしていた。
「確認・・・します。つまりあなたは初の労働報酬を私の服に遣ったわけですね?」
「ん、そうそう」
あっさりと答えられ、バゼットはリボンを解くアンリの手をじっと見つめた。
「それは・・・ありがとうございます、嬉しい・・・です」
俯いたまま切れ切れであっても、声ににじみ出る感情は隠せない。
「喜んでもらえて嬉しいんだけどね・・・・」
アンリはしばし視線を空中に泳がせた。
「すぐに着て見せてくれよ、サイズとかは合ってるはずだからさ」
「はい、すぐに着ます」
自分の選んだ服が、果たして相手に似合うか。気になるところであろうとバゼットは快諾する。
「よし、じゃあ開けるぞーーーー」
「・・・・・・」
「・・・ど、どう?」
「・・・・・・」
「ワインレッドもいいなと思ったんだけど、こっちは真珠付いてて可愛いだろ?」
「・・・・・・」
ぎちぎちぎちっ・・・・!!
無言で革手袋を嵌めるバゼット。
「わー!!暴力反対!ていうか何が気に入らないんだよ!」
ソファーの裏に転がり込みながら叫ぶアンリ。
「だ・・・だってこれは・・・」
「ランジェリーだろ!何がいけないってんだ!!」
絹の繊細なレースと要所にあしらわれた淡水パール。
一見して高級品とわかる、黒のランジェリーセットである。
「な・・・なんてものを・・・私は下着ならもう十分に所持しています!」
「あんなスポーツブラとボクサーパンツなんか認められるか!!」
「ともかくこれは!」
「・・・いらない?」
「う・・・それは・・・」
ソファーの背から顔を半分のぞかせて、上目遣いに見上げてくるアンリ。
分かっている、これは一見子犬に見えるが、育つと大きくて凶暴な手の付けられない狼になるのである。
分かっている、のだが。
バゼットはハァと息を吐くと
「・・・受け取りましょう、アンリ、あなたの気持ちとしてですが」
「本当か?」
「ええ・・・」
きらりとアンリの目が光る
「じゃあ・・・着てみてくれる?」
「なにを言ってるんですか!!」
「だってさっき言ったじゃんかー、すぐ着て見せるって」
ソファーに座り込んで、期待に満ちた瞳で見上げるアンリ。
「絶対似合うと思うんだよー、すっげぇ悩んだからー」
「・・・・・」
バゼットはジャケットを脱ぐと、アンリに投げた。
頭に掛かったジャケットを掴もうとすると。
「駄目ですアンリ、私が良いと言うまでそのままでいなさい」
後は衣擦れの音。
「くく・・・潔さはあんたの美点だぜバゼット」
「お黙りなさい」
ワクワクとバゼットからお呼びが掛かるのを待つアンリ。
しかしその時
「ん、何バゼット・・・ていうか・・・うひゃあ!!」
「なんですか、女の子の様な声を出して」
「なんで!なんで俺が脱がされてるの!ねぇ!??」
「私は寒い思いをして脱いでいるんです、あなたも脱ぎなさい」
「ええええええええ!!そんな展開誰も望んでないよきっと!!」
「知ったことですか」
ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ・・・・
その後きちんとランジェリー姿のバゼットを見ることが出来たのに、アンリの心には消えない痛みが残ったらしい。
「アンリ、さぁこれを」
「・・・あのさ、バゼット。いや、マスター・・・」
「何ですか?」
「今回は誰に吹き込まれた?」
脱・牛丼生活
「衛宮士郎君です。毎食牛丼では流石にサーヴァントでも体に悪いのではないか、と」
なるほどね、あのマジカル馬鹿主夫余計なことを。
「アーチャーにも、今はいいですが長期的には私の体にも良くないと諭されまして。まぁ一理あるかと」
駄目駄目言ってるくせに基本が変わってねえよ、正義の味方こげぱんマン!
「間桐さんの話によると最近はレトルトもなかなか侮れないそうでして、上手く利用すれば味・栄養共に申し分ない物が手早く摂取できるとか」
俺、あいつになんか恨み買うような事したっけな?
「このエプロンは遠坂さんが提供してくれました。彼女にはますます頭が上がりませんね」
なるほど!合点がいったぜ赤い悪魔!
フリルがこれでもかとあしらわれ、ご丁寧にチューリップとひよこのアップリケが胸に付いている。
これを差し出したときの、赤い悪魔の会心の笑みは想像に難くなかった。
地獄の手料理マスター養成ギプスとしか思えない、悪夢のペア・フリルエプロンを身につけ台所に立つ俺とバゼット。
うわぁ、今この姿を誰かに見られた日にゃ、久しぶりに皮破りそうだよ俺。
「で、何作るのさマスター」
「温野菜のサラダと、豚の冷製…辺りが最初は良いだろうと」
士郎か桜か、アーチャーの仕込みだろう。
料理らしい手順はほとんど無いが、まずはこれで台所での立ち回りを憶えさせる腹だ。
それに最初から失敗させては意味がない、いい気にさせて木に登らせるのが人に物を教える基本。
「妥当な所だな、じゃあフリーズドライのやつを…」
「いえ、アンリ、あなたは後ろから監督していて欲しい」
「は…?」
バゼットは正しい瞳をしながら、
「サーヴァントの体調管理はマスターの義務です、よって私が学ばなければ意味がない」
そして(後で考えればこれが命取りだったのだが)少し顔を赤らめ、
「それに…料理の一つもできないというのは、あの…ちょっと問題でしょう?」
「・・・・」
珍しく女っぽくてしおらしい発言をするバゼットに、ほだされた俺を笑わば笑え。
だって…誰にだって想像の限界ってもんがあるだろ?
「バゼット!レンジが火花散らしてる!止め・・・ボタンがめり込んだ!?」
「一体…どうして耐熱皿が融解するんだ・・・?」
「なんでこの包丁コンニャク切れないんだ?伝家の包丁?ふーん…」
「まて!バゼット!ご飯ってのは40秒じゃさすがに炊けないものなんだ!!」
「醤油と酢とサラダ油の混合液から、どうして青酸臭がするんだろーなー・・・あはは、バゼット、気にすんなって…」
「バゼット!!早まるなっ!!ルーン石は火気厳き・・・・!!!!」
想像を越えてゆくことで、人ってのは新たな地平へ立つもんさ・・・
その夜、俺は人生で最高のな○卯牛丼を味わったのだった。
焼け野と化した台所の修理…アーチャーに頼むかな・・・
太陽がいっぱい
水面をさわめかす風、空には太陽がいっぱい。
さぁバカンスを始めよう、ここは常夏の夢の国。
夏は勝負の季節だから、一分一秒気が抜けない。
あんまり目移りしていると、可愛いあの子をさらわれる。
「しつけのわりーーーーーい犬になっ!!」
「ぎゃあぎゃあわめくな駄犬。お前みたいなガキにゃエスコートは役不足だろ」
水辺で火の粉を散らすのはアンリとランサー。
「二人とも・・・人が見てますから・・・!!」
おろおろと仲裁しながらも、結果火に油を注いでいるのはバゼット。
見事としか言いようのない美しい肢体を、タイトな競技用の水着で包む姿は爽やかに艶めく。
「いや・・・申し訳ないバゼット。まさか彼がここまで子供めいた行動を取るとは、予想の範囲外だった」
その傍らで腕を組むアーチャー、事態はこれで察せよう。
バゼットをわくわくざぶーんに誘ったアンリ、もともと体を動かすことは嫌いでないバゼットは応じ、どこかから聞きつけたランサーがアーチャーを集った。
その足し算の結果がこれだ。派手な言い合いはその原因が色事と察せられるせいで余計に衆人の関心を引いていた。
「今時アロハか信じらんねー!じじいは花壇の水やり当番だろうが!」
「ビンテージと安モンの見分けもつかねぇガキが!粋がってド○ガバなんぞ穿いてるんじゃねぇ!!」
そのセリフにアーチャーが目を剥く。
「な・・・!!」
バゼットは溜息を吐くと、
「あれでも安いものを買わせたんです・・・ルイ・ヴィト○とエル○ス、どちらがいいかと相談されて・・・」
ド○チェアンドガッバーナのメンズスイムウェア、ウン万円也である。
「それは・・・教育上良くないぞ」
「服代は自分でアルバイトをしているんです・・・そこまで口を出すわけには」
「うーむ・・・しかしいくらかは定期預金に入れさせるなどだね・・・」
天然の苦労人で真面目体質という点に一致を見る二人は、色気のない会話を地味に交わしている。
「大体なんでお前が居るんだ!ホントマジで!」
「俺が何処にいようと俺の勝手だろーが!」
「・・・セイバーと士郎といい、凛もイリヤも・・・。何?他人のデートの邪魔が趣味かぁ、根暗だねー!!」
アンリとランサーがますますヒートアップする足もとで、現在の金利と外貨積み立てについて砂に計算までして解説するアーチャー、真面目に聞いているバゼット。
混乱は頂点に達していた。
ヒーローはこういうときに現れる。
来たよ我らがゴールデンヒーローと神の使わしめたるヒロインが。
「本当にやるんですか?」
「そうです、一般人に迷惑が掛からないように狙いは出来る限り絞りなさい」
「・・・オーナーとしてはお客さんに迷惑の掛かるようなことはしたくないんですが・・・」
「花壇の水やり当番を忘れるような駄犬にはしつけが必要です。幸い良い修理人もいますし、アトラクションだとでもアナウンスを流せば混乱は避けられるでしょう」
「・・・ランサーだけでいいんですね?」
問うギルガメシュに、にっこり笑ってカレンは命じた。
「いいえ、ついでに悪魔にも神罰を下しておきましょう」
ついでにしては火力の強い原因不明の爆発は、わくわくざぶーんの新名物、定時打ち上げ花火の暴発として片づけられた。
幸い巻き込まれた教会事務員の青年に大した怪我はなく、数時間後には包帯ぐるぐるの姿で花壇の水やりをしていたし、アルバイターの少年も保護者に連れられ帰っていった。
今が盛りの夏のひととき。
空には太陽がいっぱいである。
「だから!私は気にしてなどいないんです!本当に!」
「うんうん、バゼットは全然気にしてない、ホント」
「カレンなんて…カレンなんて…うえぇぇぇぇん」
公園外れの赤提灯。
面接落ちをからかわれ、酔いに任せてくだを巻く女が一人。
「お客さん、彼女大丈夫?」
「んー、まぁいざとなったらタクシー呼ぶよ」
こっそりバゼットの銚子を盗もうとした手を、音速の拳が捕らえる。
「アンリ!未成年でしょう!」
「うわ痛い痛いいたいっ!!…ちぇー、こーゆーのは見てるんだからさぁ…」
「お銚子追加です!追加です!」
「もーやめとけって、明日も面接あるんだろ?」
ごちそうさまと礼をいい、真白な月の下に出る。火照った体に夜風が染みて、ふっと人恋しくなる月夜。
「私…駄目だなぁ…」
ポロリと出た弱音は、風に溶けて消える前に、
「そうでもないだろ」
彼に拾われ温められた。
「そう…かなぁ…」
「そうだよ」
へへへっと、酔っぱらい独特の笑顔で笑った彼女は、くるりと回った。
「あなたがそう思ってくれるのなら、いいです」
「そうそう、それにさー…」
笑い崩れる酔っぱらいが、噴水に落ちないようしっかり抱きしめて。
「永久就職口ならいつでも空いてますんで」
さわさわさわと梢が鳴って、月もひっそり雲隠れ。
「…え、えーと…考えて置きます…」
「ああ、それで良いよ」
冷たい夜風が体を冷やす、繋いだ手だけが燃えるよう。
「…私、あなたには甘やかされてばかり」
呟きも、やっぱり拾われて。
「ああ、それでいいんだよ」
ざわざわざわと木陰が揺れて、二つの影が一つに重なり、月がこっそり顔出した。
いつか、羽が生えて
雪が溶けてゆくの、白い雪が、溶けて、水になって空にのぼって見えなくなるの。
貴方はそこにいますか?
肩を抱く風のように、見えなくても、側にいてくれていますか?
「…ですから、私も言ってやったのです、こんなところで働くのはごめ…」
「…話の概要は掴みましたバゼット。つまり、一時の激情にのぼせて、また就職口を失った、と」
「……」
「ランサー、紅茶を…同じものを、ポットで」
「ははは、またかバゼット。これは俺がおごっとくからよ、気ぃ落とすなって」
「サーヴァントに施しを受けるところまで落ちましたか」
「…しくしくしくしく」
「ああ…バゼット、日々の労働によって自立することの出来ない人間とはかくも哀れなのですね…」
「おいおい、今にもビルから飛び降りそうな人間にそりゃ無いだろう」
「大丈夫ですよ」
その一瞬だけ、微笑んで。
「彼女の背に、翼が見える」
「…翼?」
「ええ、生えたばかりで羽の揃わない、大層無様でみすぼらしい翼ですが」
「…しくしくしくしくしく…」
「誉めてるんだかけなしてるんだかわかんねーよ…ほらバゼット、ケーキセットも付ける!な?」
「食べ物で釣られるレベルだと思われているのですね…。それにしても、貴方はバゼットに甘いわ…私にも同じケーキセットを、勿論貴方のおごりです」
いつか翼で風に乗り、彼女は少年の見た世界を見るだろう。
「大丈夫ですよ」
彼女は、それを知っているかのように微笑む。
Hopping arms
「ばーか、俺はあの三人で手一杯だっての」
お人よしの顔をしばし捨て、しかしきっちりまじめな顔で。
「お前の大事な人は、きちんとお前が守れ、馬鹿」
そう言って俺の手をぐいと引いた。
欠けた場所にしかいられない。を
欠けた場所ならどこでもいい。に都合よく転換。
地べたに近いこの位置は、彼女に一番近い場所。
その日バゼットは、新しい腕時計を買った。
まぁリクルートには必須だろう、もう戦いの邪魔だからと着けない理由もないし。
うーん、金属のベルトは勘弁願いたい、重いし金臭いし。第一バゼットにはあんまり似合わないような。
その革にしろよ、革も臭うがじき抜けるし、やっぱりあんたは古臭いアナログが似合うよ?
「あ、こら、アンリ」
小さくバゼットが怒る。あのね、あんたが店員のマシンガントークに押されて、だっさいデジタル押し付けられそうになってるから親切心出してんのよ俺。
「あら・・・やっぱりお客様はアナログの方がお気に召してらっしゃるんですね」
「いえ、あの・・・はい」
ほら、やっぱりこれがいいって。思ったより肌触りもいいぞ。
金持ってるんだからもっと堂々としろっての。
店を出て一言。
「はぁ・・・もう、あなたといるとおちおち買い物もしていられません」
押しに弱い自分は棚に上げて何言ってるんだ。
「でも、センスに関してはいくらか賞賛できる点がありそうですね」
・・・あのな、同じデザインのスーツ、5着着まわしてるお前にセンス疑われてたのか俺。
「次は夕食の食材を調達しに行きますよ」
うわ、嫌いなんだよなあ、スーパーのビニール袋・・・食い込むしさぁ・・・
「よーう、バゼット。何買いに来たんだ?」
「お、お久しぶりですランサー」
こら!何のこのこ近づいてんだよ。そいつの半径五メートル以内に入ると妊娠するぞ!
「い、いえ。士郎君に勧められて最近自炊を・・・」
「へーえ、バゼットの手料理、俺食ってみたいな」
ちょーしこいてんじゃねっつのこの犬!と中指を立てようとしたら、バゼットのやつ俺を後ろに回しやがった。
「まだ向上の余地がありますから、いずれ・・・」
「そっか、じゃあまた来いよな」
殺す!犬!
・・・でもこの位置はちょっといいかも、ケツ、当たってます。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
いーや、俺は傷ついたね。だから絶対スーパーの袋持ってやんない。
「ランサーとは・・・本当にいい友人というか、パートナーなんです」
だったら話すたびに指組んでもじもじするな!今日という今日は、断固俺は俺としての立場を主張し・・・
「もう、困りましたね・・・機嫌直してください、ね?」
バゼットは俺を口元に持ってくと、囁いた。
「今夜はあなたで体洗いますから」
・・・。
うん、たまには労働もいいよな。
「おや、シロウ、バゼットですよ。買い物帰りのようですね」
「ああ、結構自炊、はまってくれたみたいだな」
「・・・右腕に比べて左腕の振れ幅がおかしいような気がしますが・・・」
「さぁ、アンリのやつ、なんかいいことあったんじゃないか?」
「もう、現金ですね。そんなに嫌なら、姿をとればいいじゃないですか」
まぁそういうなよ、かなり燃料食うんだからさ。
「けれどね、警告しておきますが、風呂で勝手に動いたりしたらハバネロ剥きの刑ですから」
!!!!
そんな!横暴だ!
「こ、こら、アンリ!卵のパックを人質に取るのは反則です!」
怒る声とか動悸とか、俺の愛んだ彼女の一番近くにいつも。
彼女が弾めば俺も弾む、涙だって拭ってやれる。
思えばそう悪くはないこの場所。
地べたに近いこの位置は、彼女に一番近い場所。
かちゃかちゃと、彼女はカップをかき回す。
木の葉色の紅茶の水面、彼女の顔を浮かべて歪んで消えてまた浮かんで。
「彼との日々は余りにも短くて…」
銀の匙に映る風景、伸びて縮んで歪んで消えて。
「伝えきれなかったことが沢山…後悔が沢山…」
白いカップを手のひらで包み、その顔に微笑を広げ。
「それでも、前に進めるようになった今の私が、彼の望んだ未来です」
少し、眉根を寄せた微笑み。
「それが…少しだけ淋しくもあります」
カップがチンと微かに鳴った。
モノローグ
「彼は嫌いだそうでした、全てのものが…憎いと言っていましたね」
思い出しながら微笑むとき、声にも顔にも憂いは消え。
「それは嘘ではなくて本当でしょう。今思えば、彼は…私の事について以外は、割合正直でした」
と言うよりは、嘘を吐くほどのことなんて彼には無かったんでしょうねと笑った。
「でも…矛盾しているようですが、彼はそれと同じ意識の中で、全く同時に全てを愛していました。ひねくれていましたからね、素直には表現しませんでしたが」
この世全ての生きとし生けるものの、呪詛と憎悪をその身に焼きながら少年は笑い。
全ての祝福を目の前にして、彼女は怯んでいた。
少年は彼女を解き放ち、そんなものは最初から無かったのさと嘯きながら、鮮やかに自分を消し去った。
「憎しみながら愛していたのだと、カレンは言いました。…私には分かりません」
生真面目な彼女は俯く。
「分からないからこそ、分かり合えないからこそ彼は私を選んだと。そう彼女は言いましたが…それは、本当は違うんです」
顔を上げ、
「あの時は、お互い必死だったはずですから…私は死にたくなかった、彼もです。おぼれる者は藁をも掴む、選ぶ余裕なんて無かった、手を伸ばしているなら誰でも良かった」
表情は…明るい。
「だからこそ、そこに運命が介在した。私が彼の手を、彼が私の手を選んだ運命が、私はそう思います。彼は…運命論は嫌いだったようだけど」
思い出した彼女は、また少し微笑んだ。
「強い人でした…そんなことを言ったら鼻で笑ったろうけど」
切なげに口元だけで微笑みながら。
「運命によって出会いましたから、別れたのも運命でしょう…あれは最善の形だった、そう思います」
でもね…と、カップを口元に運び。
「今になって…あの時私に運命に逆らう力があったならと、思うときがある。あの時はそんなこと、思いつきもしなかったから、私も成長したものです」
少し唇を湿し。
「今なら出来るかも、そう思ったときには、いつだって手遅れなんです、私」
彼が居たなら、あんたらしいと笑っている所ですねと微笑む。
彼女の微笑みは、泣き出す一歩手前にも見える。
「すみません、そろそろ時間なので…ええ、世界を巡るんです…まずは彼の故郷を」
空になった椅子と、残された一組のティーセット。
カップを両手で包む仕草は、何かを守るようにも見えたなとぼんやり思った。
教師と生徒と
彼はここ以外どこにもいけない、成績素行不良の問題児だった。
私は彼の退屈な学校生活に、お説教というBGMとか補習という暇つぶしだとかを与える役。
彼は私にとって、一学年三百六十人分の私の担当する三クラス九十人分のその中でも素行の悪い一握り分の一の生徒。
…だったはず。
今彼は渡されたラムネビンの、冷やりと心の冷える感触とともに私に風を吹かせる。
その風は、おそらく一度乗ったならどこへなりとも私を誘う。
待っていて、私にはまだ少し勇気が足りない。
「センセー」
のしのしと、何気なく歩いて私のいる窓辺までやってくるけれど。
「バゼットセンセー、何怖い顔してんの?」
「そこは花壇ですよ、アンリ」
うえっと片足を上げるも、怪訝な顔をした。
「何にもないよ?」
「あなたが踏んでいるのは育ちすぎたアスパラガスです」
「はぁ!?」
事実なのだから、仕方ない。
彼はしげしげと足元を見やって、立ち位置を変えた。
「センセーが保健室いちゃダメだよ?俺みたいな不良のサボるとこなくなるから」
「…あなたはなぜ?三時間目はセイバー先生と剣道のはずでしたね」
「たるいし」
はははっ…って笑う、そして一瞬で真顔になってみせる。
このあたりが、油断ならないところ。
「俺の選択科目まで把握しているのは副担だから?」
「…あなたが問題児だから」
「オーケー、そういうことにしとこう。そのほうが愛があるから」
「…愛?」
思い切り場違いな単語が飛び出す。
「そ。センセーの俺への接し方に、俺は限りない愛を感じるわけ」
「具体的にどのあたりですか?謹んで訂正しますから教えてください」
「そういうところ!いや、愛されてるな!俺」
なにがそんなに楽しいのだか…
「怒った?」
「怒ってません」
「…でもね、実際感じるわけよ。裏庭の誰も忘れちまったアスパラガスのこと知ってるとことか、センセーのくせに保健室いるとことかに」
「……」
「愛すべき感じをね」
無邪気にそういって、そしてまた真顔になって私を脅かす。
「少なくともあんたは、俺を飼い殺しにすることに多少の罪悪感を感じてるだろ?」
「何を言っているんですか」
「そんなん感じる必要ないよ?ランサーが俺を気に掛けてるのは、さらに上からの天の声ってやつだから。…知らないふりができないなら、俺に関わるべきじゃない」
空は青かった。
私たちはどこへでもいけると誰もが言う。ならその後ろの柵は何?越えるも越えないも自由だとでも?
「…なんてね、辛気臭い話はここまで。これはサボり友達へのおごり」
渡されたのは透き通った、空色のラムネビン。
「購買の…」
「センセ」
風が吹いた。
「俺、いつかセンセーのこと、外に連れてくから」
「あなたは外に行きたいの?」
「違う、センセーが行きたがってるから」
私を吹き飛ばすほどの風が。
「アンリ・マユ、あなたは…」
何を言って…
風が吹いた。
「バゼット先生、申し訳ありませんでしたわ、留守をお任せして」
「…!キャスター先生」
「如何かなさいました?」
振り返ればもう彼はいない。
「あら、ラムネなんて懐かしいですね」
「…え、ええ」
「きっと頂き物なんでしょう?」
保険医は微笑んでカーテンに消えた。
ラムネビンは今夕日色。
空色のふちを茜色が焼いていて、ちりちりと火傷みたいに痛んでいるのは、昼間の約束。
「いつかって、いつですか…」
いつかなんて日取りは存在しなくて、そんな約束は果たされないのに。
(あれは、約束じゃなくて彼と私の願い事なんだ)
いつか叶えばいい、願い事ならば。
いつか、朝霧にまぎれて彼と柵を越えたその時、彼女は荷物から埃を被ったラムネビンを取り出し、彼はひとしきり笑った。
そしてまた走り出す。
クリスマスはお好き?
…夢を見た。
「似合います?」
「…似合う、けど、さ、バゼット」
目をまん丸にしたアンリの目の前で、魅惑のバストがたわわに揺れる。
縁取るのは黒いレース、繊細なそれからほんの少し盛り上がる桜色の柔らかい皮膚を、アンリは生唾飲み込みこらえる。
「ちょ…どーしちゃったのかな、バゼットは」
「どーかしてる、のはあなたのほうでしょう?アンリ」
そういって手のひらをついていたのを肘にしたから、アンリはバストに圧殺された。
ケーキについてきたキャンドルを、使いきろうかと部屋はシャンパン色の灯火だけ。
浮かび上がった、ランジェリー姿のバゼットを縁取る陰影は濃く深く、劣情はいやがおうにも、彼は若い。
「だめ?」
「…じゃ、ない」
「貴方がくれたものでしょう?とっておきですから」
笑って、ベッドに押し倒したアンリの首に腕を回す。冬なのに花が香る。
「雪が降っているから…冷えるんですよ、ほら早く」
そういって唇に伸ばした、降る雪より白い指。
潜り込んできたそれを信じられないまま、やんわりと咀嚼した。
「くすぐったい…」
バゼットが笑い、唇が降りてくる。
花の香りはそこからしていた。
ドンッ…ドダダダダッ…
蹴破る勢いでドアを開けると、ソファにくつろいで読書にいそしんでいたバゼットは非難がましい視線を向ける。
「アンリ…一応借家なのですから静かに…」
「雪!降ったか!?」
「はぁ…雪ですか?」
背後から差す日の光を背負って、バゼットは、
「そんなこと、庭を見れば瞭然でしょう…まぁホワイトクリスマスはこの土地では望めませんよ。メリークリスマスです、アンリ」
「……!」
アンリは声もなくその場に倒れ伏した。
「アンリ、どうしたんですか?」
バゼットが覗き込むも、聞こえる呪詛の声にあきれて出て行ってしまった。
「俺が一体何をしたと…寺の魔女か赤い悪魔か蛇女か…くそう…この世全ての悪なめんなよぉぉぉぉぉ!!」
怒声をドア越しに、背中で聞いている。
「どうしましょうかねぇ…」
バゼットは、困っているのと楽しそうなのが半分ずつの顔をしている。
「教えたら教えたで調子にのるでしょうし」
しかし起きた途端に夢かどうか疑うなんて、彼も幸運はそんなに高くなさそうだ。
「まぁ、少し散歩でもしてきましょう…」
結局アンリが面白いので、しばらく不幸なままにしておくことにした。軽い足取りでドアを開け、12月にしては暖かな太陽を浴びる。
(全く、雪なんて溶けるでしょうに)
降っていないとは言っていない。
「まだ、くすぐったいですね」
少し痛痒い指先。
昨夜の名残に口をつけた。
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