おやすみなさい


おやすみなさい…

遠い雨の日のおもいで。白黒の空と白黒の雨、その間で揺れていた瞳だけが濡れた鉄色の。
どうしてとしか、叫ぶことができなかった記憶。

思い出せば、悲しかったような、気がする。
でも、もう忘れてしまった。

「士郎は泣かなくなったね」
藤ねえそう言った。確か居間で、庭を眺めながら。空が赤いからきっと夕方だった。
「辛い顔もしなくなったよ」
畳の目を、数えるように人差指でなぞりながら。
「でも、笑わなくなったね」
さびしいかのように笑った彼女に、力なく、微笑もうとしてできなかった。
変に気の抜けたような表情になってしまって、仕方なく夕焼け空に目を向ける。
泣きたいような気がした、けれど泣くというのはどうやるのだっけ。
「士郎は、強くなった、のかな…」
ううん、ただ忘れてしまっただけ。
何も渡せるものがなかったから、せめて何もかもを渡してしまいたくて、そうしただけ。
たとえば夕焼けを見て昔は恐ろしく感じたことも、いつか美しいと思えるようになったことも。
喜びも悲しみも恐れも全部渡してしまいたくて、でも渡せないとわかっていたから、せめて手放してしまっただけ。
届かないことくらいはわかっていた。
「おねえちゃんは、士郎が泣いてもいいから、笑ってる顔が見たいな」
ごめんな、藤ねえ。
笑い方も泣き方も、もう、忘れてしまった。





なぁ、
背が伸びた、胸板が厚くなった、声が低くなった。
余計な知恵もついたから、口ぶりもずいぶん皮肉っぽくなったよ、上手い立ち回りかたもいくつか覚えた。
どうしようもない胸の痛みを、こらえるための眉間のしわと、引き結んだ不機嫌そうな唇と。
ここ数年で、手に入れたのはそんなもの。
「また無茶ばっかりね」
いつの間にか追い越して、見下ろすようになった彼女のつむじを、撫でたいような気がしたけれど撫で方を忘れている。
「ほら、もう真っ黒よ、ここも、ここも…」
手当てをしてくれと言ったのに、彼女は数えるのをやめない。腕の黒い、足の黒い、腹にできたのは、一番最近の。
「髪の色もずいぶん抜けたわね、士郎、時々ね、あなたがまるでおじいちゃんみたいに見えるの」
こんな、でかい図体の男に何言ってるんだよ、遠坂。
軽口の叩き方を、忘れていなければよかったのに。そうすれば、こんな顔はさせないのに。
「なんでそんなに肩を落としているの?あなたがしていることは、あなたの理想のはずなのに」
遠坂、何で泣いているんだ?
俺は理想を果たしているのに。
「士郎、その瞳の色はどうしたの?士郎、私にはもうあなたが見えないの、士郎私には…」
遠坂、遠坂が何で泣いているのか俺にはわからない。でも遠坂に何が見えているのか俺にはわかるよ。
「うん…俺もさ、最近似てきたかなって」
少し、嬉しいような気がしてた。
だから、泣かないで遠坂。俺は多分嬉しいのだから。





一人の夜を越えることが、辛かった今はもう昔。
辛い辛いとずっと思っていたはずなのに、いつの間にか忘れてしまった。
傷は塞がらなくたって乾く。
昔はよく泣いていた、悲しかったからかな、さみしかったから?もう忘れちゃったな。
子守唄ももう忘れた。たしか少し前に、歌おうとして唇が動かなかったから、それからもう歌うのはやめた。
ひとりでなかった頃のことが遠すぎて、思い出せない。
ひとりになって、悲しくてさみしくて、死んでしまうかと思ったのに忘れてしまったよ。
ふざけてつけた柱の傷も、もう追い越したから削ってしまった。
お前のレシピも、もう料理はしないからいらない。
「先輩…帰ってらしたんですね」
「桜、うん、帰ってたんだ」
また少し、大人びた彼女の影。
「明かりくらい…つけてください、藤村先生には挨拶なさいましたか?」
「ううん…」
この畳の部屋は、昔俺が寝ていたところ。
桜は障子に手をかけて立っていた。月に縁取られたその手がなぜか震えている。
「たまには連絡を…いえ」
どうして顔を、そうして伏せるんだろう。
「連絡は…もう、いいですから。帰られたら、教えてください」
「うん、ごめんな、忘れてた」
柱に寄りかかってずるずると座り込む。ああ、今夜は満月なんだなぁ。
「先輩、お布団を敷きましょう」
「布団はないよ、桜」
捨ててしまったよ、布団がなくてももう眠れるから。
「大丈夫だよ、家に戻ってるとき以外は、ほとんど野宿みたいなものなんだから」
一人分の温もりは、さみしいだけだったよ。
「先輩…せん…ぱい…っ」
桜、泣かないで。
もう俺は、さみしくないから。




なぁ、桜、あかりを一つだけつけておいて。
ひとつだけ、つけておいてくれないか…




「言ったでしょう?半身を失うより辛い別れもあるのだと。
あなたはわかっていると思ってた、お別れは二度目なのだから」
窓の外は吹雪だった。
その雪ほども白い俺の姉さんは、そっと寝床に寄り添う手を重ねた。
「でもそうね、それができないのがあなただったわ。
喜びも悲しみも、何もかも渡して逝かせてしまって、あなたには何が残るかなんて、考えもしなかったんでしょう」
彼女の顔をじっと見つめていると、俺は、悲しいということを思い出しそうになる。
彼女はふいと、視線を逸らした。
「もう一度、あなたの笑っている顔が見たかったけれど、きっと無理ね…さようなら、士郎、また会う日まで」
そっと首に腕が回る、頬へは親愛のキス。
彼女は、やがて来る春を見ることができないのだという。それはきっと、悲しいことだ。
悲しいことなのに。




そして巡り巡ってやってきた、ある春の日に、男が一人死んだ。
それだけの話だった。

何人か庇って死んだらしかった、誰かに裏切られたとも聞いた。
笑い方も泣き方も知らないかのような男だったという、
「怖くないのか」と尋ねたら、「忘れてしまった」と答えたと、誰かが言いふらしていた。

「でもね、子供のようなところもありました。あれで結構、無邪気なんじゃないかって思えることが時々あって…」
それはたったひとつだけ。
「眠るときにね、真っ暗にしないんです、
あかりを一つ必ずつけているんですよ、自分一人の部屋のくせにね…おやすみって、一人で言って」

「一体どうして」
「さみしがるといけないから」
「あなたが?」
「いや、私ではなくて…」

そのとき、たった一度だけ、
さびしそうな顔をしたと誰ともない噂に聞いた。

「おやすみ、…」



おわり




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