猫と影



------------------------------------------------------

膝の上の恋しい重み。
愛しい彼は嘘ばかり吐く人。
誰にも祝福されない恋の苦さをかみしめて、金茶の瞳を覗くと見透かすように微笑まれた。
膝に零れる黒髪に手を差しこむとそこは温く、
ああ、このひとにも血は通っているのだと、ふと思い出した。

あくまのようなひとにこいをしている。

「そんな、泣きそうな顔をするもんじゃありませんよ」
膝の上の顔が微笑むと、その頬に落ちるくっきりと濃い影。
血の気のない白い顔はいつものこと。
「今日は僕、まだ意地悪していないでしょう?」
高遠は"安っぽくて無粋極まりない"という理由で蛍光灯の光を好まなかった。
さすがに洋燈とは言わないが、今時この部屋の明かりは全て電球。
それも、日本人好みに部屋全体を明るくしたりなどしない。
スポットを照らす間接照明はさすがに趣味のよい配置で、
深紅のソファの上に寝転んで、はじめの膝に頭を載せている怠惰な姿さえ、
闇の中に神秘を帯びて浮かび上がっている。
フィラメントの放つわずかに赤い光は、確かに無機質な蛍光灯のものより温いとはじめも思う。
しかし光の輪の中に浮かぶ輪郭のはっきりとした影は、
蛍光灯のぼんやりしたそれを見慣れたはじめには、気味悪く感じられることがある。

まるで、影に命があるようで。

「それは、影には命があります、当たり前」
「……なにそれ」
悪魔はまた、はじめを誑かしにかかる。
「光のもとでは逃れられず、逃れたと思えば包まれている。
永遠に離れられないパートナー、望むと望まざるとに関わらず」
君と僕みたいにね、と、いつものようにゼスチュア過剰に囁き、はじめの頬を人差し指で撫でた。
誑かされて、いる。
「影なんか、何もできないじゃないか」
「本当にそう思う?影のない世界で、人は生きて行けると思う?」
「……」
こういう抽象的な会話がはじめは苦手だった。
しかし高遠といると、いつの間にか巻き込まれている。
俯くはじめの太腿にすり……と、頬を擦り寄せてまた笑う。
「なんだかナイーブですね、嫌なことでもありました?」
「別に……」
「別にって顔じゃないですよ。ああ、もしかして嘘を吐いたつもり?」

「下手くそ、そこがいいのだけれど。
でも僕に隠し事をしてはいけません、さあ話して、そうしないと嫌いになるよ?」
あくまがささやく。
震えているはじめの腹部に顔を埋めて強請る。
表情は見えない。でもきっと笑っている。

「昔、猫飼ってたことがあって」
「初耳ですね」
「黒猫、俺が庭に一人でいるときに寄ってきて、野良のくせに」
か細い声はたどたどしく、ほとんど呟きに近い。
不明瞭なはじめの声を、高遠は責めずにじっと聞いている。
そんなところが好き。
はじめは幼くて、悪魔に比べたら人間は皆幼いのだろうけれど、
幼いはじめは、誠実と誠実なフリの見分けがまだつかない。
だからはじめは深みに嵌ってゆく。

「ちょうど今頃の、寒い季節にひと月だけ家に居て」
「ひと月だけ?」
「うん、いなくなって、帰ってこなくて、それっきり」
あんたの目がよく似ているんだと言って、はじめは口を噤んだ。
「悲しかったんですか」
「うん」
「そうですか」
意味のない慰めなど口にしないところも好きだった。
優しさではないかもしれないけれど、好きで好きでたまらなかった。
「いなくなって寂しかったのかな、しばらく落ち込んだんだ」
「……それは違うでしょう」
穏やかに否定されて、はじめは微かに首を傾げる。
「君は頭のいい子だから、もともと野良の猫相手にずっと家に居ろなんて無茶な要求はしない」
「けど」
「悲しかったのが確かなら、それは猫がいなくなったからではなくて、猫に置いて行かれたから」

「昔おじいさんに置いて行かれたように、また一人で残されたからだ」

ぽつりと、白く透きとおった頬に水滴が落ちた。
一粒落ちると、堰をを切ったように次々と。
ぱたぱたと音を立てて雫は弾けた。
「きらきらして綺麗ですね、君の瞳が零れているみたいに見える」
泣いているはじめの瞳に手を伸ばして、涙に指先で触れた。
わずかに、頬に血が上ったような。
けれどきっと、灯りのせい。
「僕は嘘つきで、約束を守らない不誠実な人殺しですけど"約束"しますよ」
整い過ぎて、作り物めいて見える笑み。
「君を置いてはいきませんよ、どこにだって連れて行ってあげる、地獄にだって、ね」
体を起して口付ける、冷たい唇はどうして自分の欲しいものを言い当てるんだろうとはじめは思った。
「僕は君の影なんだから、ずっと一緒ですよ、望むと望まざるとに関わらず」
いつまでこの人は自分を誑かし続けてくれるだろうと、
考えるのが嫌ではじめは瞳を閉じた。

ふたつの影はしばらくじゃれあい、やがてひとつに重なってしまった。



--------------------------------------------------------------------------------





戻る