第一話 社長と清掃員



鼻歌交じりに通用門、窓口のおじさんに笑顔で挨拶。
名簿の隣にサインを押して通行証を貰い、ビルに入ってロッカー室へ。
作業着に着替えて道具を揃えて、ポンと廊下に飛び出すとパートのおばさんに出会う。
「あら、衛宮君早いのね」
「今日は早上がりなんで、今から始めないと終わりませんから」
「いつもこっちまで手伝ってくれてるのに、も少し手抜かないと続かないわよ?」
にやっと笑ってチョコレートをくれた。

ご忠告、痛み入りマス。



ビルの清掃も兼ねたメンテの仕事は、長期はきつい。
が、俺みたいに体力が有り余ってる学生が、短期派遣で稼ぐには都合がいい。
正直外壁までやらされるのはどうかと思うが、ベンチャー企業ってのはどこも或る程度はケチなものだ。
おっと…一応仕事先だ、合理的…と言い換えておく。

すれ違う社員さんに挨拶しながら、エレベーターで最上階へ向かう。
内装と調度が他の階より数段上のそこは社長室のあるフロア。
何で社長室ってのはどこのビルでも最上階なんだろう?
たまには受付通るとすぐ社長室って言うのも面白いんじゃないだろうか。
そんな事を考えながら、大理石の廊下に踏み出すと横合いから声がかかった。
「ァ…衛宮君!ちょうど良かった…!」
ほっとした声は秘書の三枝さん。
その後に控えているのは蒔寺(さん)と氷室さん、社長秘書三人衆である。
「おっ、タイミング良いじゃん、さっすがブラウニー」
「ふむ…この場合は仕方ない…ライダーさんには私から報告しておくから、早速取りかかって欲しい」
「…えーと」

なんに?

頼まれたのは空調の掃除。
今日は大切な会議が直々に社長室で行われるのに、朝空調をつけたら異臭がしたらしい。
良くある話だった。
手早くばらして中を覗いてると、電話がかかったりライダーさんが出社してきたりと三人衆も忙しく立ち回っていた。
そして、何とか小一時間でメンテ完了、社長の出社にぎりぎり間に合った。

廊下ですれ違った社長の姿は印象的だった。
褐色の肌と白い髪、きついまなざし。
業界の体制を破壊しにかかる新勢力の若き旗手は、そのルックスと相まってテレビに雑誌に引っ張りだこ。
疎い俺さえ顔に見覚えがあった。
ちらりと一瞬目を向けられて、慌てて逃げ出す。
ちょっと雇われ清掃員とは生きてる次元が違う人だ。

「衛宮ー、サンキューな」
「ん、構いませんよ、仕事ですから」

仕事ですから。

タイミング良く、会議の日に故障しましたね、空調。
昨日空調のチェックしたの、俺でしたよね。
俺、今日「偶然」最初に社長室行きましたけど。
メンテしてたら、「偶然」電話がかかってきて、俺は社長室に一人で作業してましたね。
ま、「偶然」ですけど。



一時間だけ早上がり。
実はこのビルの担当は今日までだったりする、明日からはまた別のビル。
そんなもんだけれど、ここは社員さんがみんないい人ばっかりだったから、少し寂しくもあった。
そんなこと言えた立場じゃないけどな。
夕暮れに灯りで華やぐオフィス街の通りに出ると、すうと黒塗りが俺の隣に着く。
ひょいと乗った。

「…物は」
「これ」
ほいと渡したのは単なるデジカメ、解像度は市販の物の何十倍だけど。
男はそれを、そのままスーツケースに収めた。
「チェックしなくていいのか?」
「なに…お前の仕事はしっかりしているよ」
そりゃ仕事だから…
「お前に誉められると、なんか気持ち悪い」
「それは心外だな…私の仕事はマネジメントで、お前をこの仕事に回したのは私の判断だからな」
「俺の手柄はお前の手柄ってことか」
言峰はうっそりと笑った。
暗い笑みは底が見えなくて怖い。まったくこいつといるとクーラー要らずだ。
「…明日は?」

明日はまた別のビルに、別の会社に。
デスクに放っておかれるような、他愛ないデータや企画でも、喉から手が出るほど欲しい同業他社や下請けはごまんといる。
それが大きくて、前途有望な今をときめく成り上がりの企業なら尚更に。
お金さえ払って下されば、代わりにその手になりましょう。
俺のアルバイトは、つまり、そういうの。

「明日もここだよ」
「…?」
怪訝な顔をする俺に、言峰はまた笑って缶コーヒーをくれた、甘いやつ。
「まぁ落ち着いて聞きなさい」
「子供かよ…」
そう言ってプルトップを引いて、ちょっと止まった。
「なぁ…」
「毒など入っておらんよ」
「はは…そうだよな」
一口煽った。
「睡眠薬だ」
「…ぐっ…げっ…!!」
吐き出そうとした所を、大きな手のひらで強引に口を塞がれ、鼻も摘まれる。
「車を汚すな…うちの社用車ではないのでね」
「…!!」
息が出来ずに仕方なく飲み込み、急激に襲われる脱力感にシートに倒れ込んだ。
「こ…の…なんで…」
「なに、明日からのクライアントの要望だ」
クライアントの…?
身体に力が入らない、耳鳴りがして、視界が歪んだ。
「ではライダーさん、後はお任せします」
「ええ」

…ライダー、さん?

紫の髪の美女、社長の秘書…と言うより腹心に近いミステリアスな人だった。
けど優しくて、掃除してるとよく声を…かけて…貰って…

少し憧れていた。



くたりと動かなくなった士郎をシートに寝かせ直して、言峰はスーツケースから書類を取り出す。
「ここにサインと日付を…ええ、とりあえず二週間です、その後のことは、今後ご相談の後に」
「わかりました…しかし社長は随分ご執心のようでしたから、契約の更新はほぼ間違いないと思って下さって結構です」
「ではそのように」
士郎の事はもう一顧だにせずに車を降り、頭を下げる姿を置いてするりと夕暮れを走り出す。
目的地は恐らく、前方にそびえるホテルの最上階。
ハンドルを操る彼女の上司は家を持たない、出会った時からホテル暮らしだった。
(なぜこの子なのだろう…)
金と相応の立場さえあれば、そういう相手はいくらもいるはずだ。
危うい道に片足を突っ込んでいたとはいえ、未だ成人しない少年、こうして連れ去ることのリスクは計り知れない。
ミラーにうつるあどけない寝顔から、目を逸らした。

仕事だ。

士郎を捕らえた黒い塊は、人工の光溢れる通りを抜けて、不夜城に吸い込まれていった。



第二話 社長と似非神父



ふらふら、くらくら、ふわふわ、ゆらゆら。
漂う感覚がふと、冷気を感じて微かに浮上する。
狭まり朧になった視界のなかを、ばらまかれた光が滑る。士郎は、自分が夜空から落ちていっているのだと思った。
違う。
彼は何者かに抱えられ、ガラス張りのエレベーターの中にいる。
はるか足下に広がる、空の星を駆逐する地上の星を、士郎は美しいと思い、微かに唇が動いた。
抱く男は、そのささやきを拾って口元に耳を寄せたが、士郎は再び瞳を閉じた後。
抱えられ触れ合うその場所だけが温かい。
どこへいくの?



二度目の浮上は一度目よりも鮮明に、その分の苦痛を孕んで訪れた。
頭を割るような耳鳴りと、吐き気を催す倦怠感、揺れる意識。
熱を帯びた関節、暑いのか寒いのかわからず、鳥肌が立っているのに背中は汗ばんでいる。
…ここはどこ?
身体は何をどうしても言うことを聞かない、ただ皮膚を通して伝わる感触は糊のきいたシーツのそれ。
やっとの思いでこじ開けた瞳の視界は、歪んでにじんでいたが、それでも間接照明で照らされたベージュの天井を見つけた。
バラバラな思考を何とか繋ぎ、ここはきっとどこかのホテルだとぼんやり思考する。

そしてそれを聴覚が拾った、
「……!………!!」
…怒鳴り声?
正確にはわからない、なにせ酷い耳鳴りと自分の心臓の音で頭が割れそうなくらいなのだ。
その怒鳴り声も、微かに伝わった振動と、それによる頭痛でそうではないかと感じたのだから。
「あ…う…」
続く怒鳴り声の、余りのひどさに士郎は呻いた。
怒鳴るのは構わない、でも響くんだ…頭に…
でももう、身をよじる力もない。
情けなくて、涙が出た。



「何のつもりだ!あれは!」
半分は調度も兼ねた、典雅な装飾の受話器。
ぷつりという音で外線が繋がったと知るやいなや、彼は怒鳴った。
「こちらはキャピタルキリエ…申し訳ないがどちら様かな?」
「黙れ似非”神父”!あれはどういう事だ…!話にならん!」
「どちらの”信者”様かな…、ああ、エミヤ殿か?」
暗くて深い、沈んだ池の縁から響くような声は間違いなく言峰のそれだ。
「”羊”がお気に召しませんでしたか」
「気に入るも何も…あれでは話もできん!」
ベッドに休ませた士郎の身体は冷え切ったかと思えば火のように火照り…このままでは、死んで仕舞うのではないかと。
この似非神父はそのくらいのことはする。
「はて…エミヤ殿、羊と話す必要が?」
「だからと言って前後不覚にする必要がどこにある!」

「それはありますよ、エミヤ殿」

ぞぅ…っ、と。
受話器を握る手が痺れた、その声の冷たさに。
「この国では人は売れません、エミヤ殿…だから羊にするのです」
「……」
全身が一瞬で氷点以下に冷えた、そして、のど元に酸いものがこみ上げる。
「羊は口をききません…おわかりか…」
「黙れ!」
微かに嘲笑さえ含んだ声を遮って怒鳴った、これ以上聞いていたくない。
「…失礼いたしました」
「……」
「何、ご心配には及びません、現在は試用期間に当たりますので、その薬はじきに抜けるでしょう」
「どのくらいかかるんだ…」
「朝方までには」
傍らの置き時計に目をやり、夜明けの遠さと受話器の向こうの男を呪った。
「お気に召しませんでしたら、すぐにでも解約を…」
「今を持って買い上げる、手続きにはお前でない人間を寄越せ」
受話器を叩きつけ振り向くと、シーツの海に少年は溺れている。
先程のど元まで駆け上がった熱は、苦い後悔としてエミヤシロウの身体に沈んでいった。



きし…と。
寝かされているのだろうベッドの、足元が少し軋んで沈んだ。そして視界を遮る影。
誰…?
誰とわかったところでこの体ではどうしようもない。心に浮かんだ微かな絶望と諦めを、健気に士郎は押し殺した。
何をされようと、こんなところでどうにかなるわけにはいかないのだ。
影はぐっと大きくなり、やがて士郎の視界いっぱいになる。何か言っているんだろうか、湿った息を感じる。
一言でいい、声を出せれば。
口を開いて、息を…ああ、何でこんな事が出来ない…
みじめにも喉からは、踏まれたときのようなひしゃげた呻きが漏れただけ。
影はやがて遠のき少しだけほっとするも、やがて胸元を動く何かを感じた。
そして冷気、服を…?
怖い…怖い…
ここはどこ、どうしてこんな所に、お前は誰で、何でこんな事をするんだ。
触るな!!
叫びたいのに、うめき声が漏れるだけ。押し殺した恐怖は限界を超えて漏れ出て、身体が震え出す。
目尻に溜まった涙が流れた。



震えだした身体に舌打ちをした。
苦しそうな様子に、思わず胸元を緩めたのだが、寒かったのだろうか。
慌ててソファに放っていたブランケットを取りに行き、気がついて水差しも持ってきた、吐息が絡んで辛そうだったから。
ブランケットを掛け、身体を起こす。くにゃりと力が入っていないことに思わず顔を歪めた。
こんなつもりでは…なかった。
非合法…非人道的な手段に訴えた以上、どんな言い訳も出来まい。しかし彼は、士郎をこんな風に扱うつもりはなかった。
…話をしてみたかった。
この、この世にただ一人きりの、彼の…
「うぅ…」
うめき声に意識を引き戻される。微かに開いた瞼から覗く瞳は焦点が合っていない。
頬を伝った涙に、そんなに苦しいのかと胸が痛くなる。
「すまない…」
届くとは思わなかったが、それでも謝罪の言葉を述べ、口元にコップをあてがう。
呻きを漏らす口が、それでも薄く開いて水分を嚥下したのを確かめて、泣きたいような気持ちになった。

夜がこんなに長いのは、久しぶりだ。





第三話 社長と俺



昔一人の男がいて、なんの気紛れか少年を拾って、けれど少年が大きくなるまで、二人は一緒にいられなかった。
最後の記憶は振り返らないその背中が、遠ざかっていくそれ。
追いかけることも出来なかった遠い遠い記憶。
形は違えど、同じような話はいくらもあるだろう。
悲しみに沈んだ少年もやがて大人になり、もう悲しまなくても生きていけるようになる。

けれど自分は、悲しんでいたかったのかもしれない。



衛宮士郎が飛び起きて最初に目にしたのは、ソファの背から突き出た二本の足だった。
一本では困る…が二本でも困る。
どうやらソファには誰かが寝ていて、そいつは士郎をここに連れてきた人間に違いないのだから。
目を凝らすと、微かに足は上下しているように見える。ゆっくりと、寝息のリズム?
…決断は早いほうがいい、こういう場合は。
言峰にやられた以上、この拉致は冗談でもなんでもなく本気だろう。
いずれ臓器か海外か、昨晩はなぜか何もされなかったようだが、この次の瞬間の保証は何もない。
逃げるが勝ちだ。
一斉の!でドアに駆け寄る。鍵は?かかってな…
かったのだが、鼻が柔らかいものに衝突した。
「おや」
「あ…」
勢い良く引き開けた扉の向こうには、紫色の髪の美女。
長身から、澄んだ瞳が俺を見下ろしている。
ああ…!でも、この人もあっちの関係者だ。悪いけど…!
その美しい肢体に当て身を食らわそうとした俺は、
「おはようごさいます、元気そうで何よりです、士郎」
天罰覿面、笑顔で首根っ子捉まれ吊されていた。
…あれ?



「騒がしいな…ふん、人の寝床に居座りおって」
室内に連れ戻され、再びベッドにポスンと戻された俺に、不機嫌そうな声がかかる。
そのソファから突き出た足の主は、予想通り例の社長だった。
身体を伸ばし、不快そうに肩を回す。一晩ソファでは確かに辛かろうが。
「…なんなんだよ」
「それはこちらの台詞だな、一晩寝ていて時給取りとはいい身分だ」
「そっちの都合だろ!大体なんだよあの薬!」
噛み付くと、馬鹿にしきった表情で、ことさら嫌味に俺を見下した。
「私は知らん、商品なら傷など付けるなとは言ったが」
…なるほど、その「クライアントの要望」に応えた結果があの薬らしい。
確かに話を聞いて暴れなかった自信は無いが、いきなり一服とは言峰らしくて涙が出そうだ。
にしても、
「お前がクライアント?」
「雇い主をお前よわばりか」
「まだ判子もサインもしてないし、それに身柄ごと売り渡されるなんて聞いてない、俺の意志はどうなるんだ」
「そもそもが非合法の取引だ、書類も意志もあるものか」
言われてみればそうだが、だからと言ってはいはいと従えるか。
「知るか、帰る」
言い捨てて再び扉に向かった士郎は、やはりまた、その扉をくぐれなかった。
「どこへ行く、勤務時間内だぞ」
立ちふさがるのは十字に縛られた黒い壁、いつだってそう。
「朝から縁起の悪い…」
背後で毒づく声が聞こえた。



そうして、スーツケース持参の言峰と、なにやらひそひそ話し込んだ士郎は、溜息をひとつして向き直った。
「わかった、そういうことなら俺は構わない」
「ならここに」
ひらりと一枚。先日の教訓からしっかりと目を通し、さらに執拗に読み返してからサインした。
その書類を、苦虫を噛み潰したような顔をしたエミヤシロウに突き付ける。
「さてエミヤ殿、もうわかっておられるだろうが、この衛宮士郎は仕事はこなすが気が強い」
「ああ」
「許されるならば譲歩していただきたい、二週間、衛宮士郎のための時間を」
「私に試用されろというのか」
「申し訳ありません」
慇懃無礼の見本のような態度に、今更怒る気にもならない。
ふと見れば、衛宮士郎は真っすぐにこちらを見ていた。何がしかの意志を持った強い視線。
「…わかった、いいだろう」
書斎にしているゲストルームに言峰を入れ、書類に一通り目を通した。
「昨日、お前は寄越すなと言ったが」
「申し訳ありません、衛宮士郎のマネジメントは、本人の希望で私が専任しております」
ぴくりと眉が動く。
「…さっき何をしゃべった?」
「はて、存じませんな」
あからさまにとぼけているが、追求したところで時間の無駄なのはわかってる。
いらいらとサインをし、それを言峰が収めたタイミングで扉が開いた。
「もういいか?」
半身を扉からのぞかせ、言峰が頷くと入ってきた。
「……」
まじまじと見つめたのは、少年が詰め襟の学生服を、ぱりりと着こなしていたからだ。
しっくりと馴染んだ出で立ちは、会社で見かける作業着のそれとは違っていた。
「…?…ああ、俺、学生なんです、だから申し訳ないですけど、平日は18時からの就業になります、マスター」
あの制服は時折見かけることがあるが、それよりも
「マスター?」
「個人クライアントは゛マスター゛です」
なるほど…。
「ならばよろしく頼む、衛宮士郎。お前を、何も手慰みのためだけに雇うわけではない」
「仰せのままに」
恭しい辞儀が、ほんの少しぎこちないことにかえって安堵する。
身勝手な事かも知れないが。



以上が、衛宮士郎がエミヤシロウに雇われた顛末。
同じ名前、非常識なまでの執着、偶然ではなく必然でも足りず。
それなのに、誰も何も教えてはくれない。
それでも、
(慣れてるさ)
契約書一枚が命綱、衛宮士郎は飛び込んだ。







第四話 社長と社長と俺



確かに”企業スパイ”など名乗れるほどの事をしているわけでもない、所詮アルバイトだし。
目当ての会社の最寄りの居酒屋に、毎週末張り込んでは酒で口の緩んだ社員のうわさ話を拾い、
シュレッダーを漁りゴミ箱を漁りロッカーも漁り個人ブログを一日中検索し。
一番辛かったのはトイレでうわさ話を張り込んでいたときだ、俺はその会社の怪談になったらしい。
…そんなこんなよりは確かに楽だけどこれはまた別の意味で辛い。



「あ、こんばんは」
「いい?」
「どうぞ、床濡れてますから、気を付けて」
笑顔で応対、これ基本。
ダークグレイのスーツのお兄さんは、そそくさと用を足して出て行った。
トイレの清掃は6時から6時半の間、昼のシフトの社員さんと夜間シフトの社員さんが入れ替わる時間。
声をかけて使ってゆく人は結構多い、生理は仕方のないものだ。
そうして幾人かを見送った後に、その人がやってくる。
「いいかな?」
「どうぞ」
「雨が酷いね」
天気の話題を出したのは、紙袋を下げた重役風のおじさん。
彼もまた、そそくさと出て行く。
「お疲れ様です」
背中を見送って、”仕事”をする。
個室に残された紙袋を掃除用具のカーゴに放り込んで、一丁上がり。次はエントランスの清掃へ。
これがここ最近の、俺の仕事の全部だったりする。



つまり俺は、この会社にすでに入り込んでいるスパイさんの、報告を受け取ってエミヤ社長に渡す役。
「ま、楽っちゃ楽だな…」
退屈と言えば退屈な。
連絡は初日から滞りなく、そして、
「また入ってるな」
今日はベビーチョコだった。
無地の茶封筒が紙袋の内容なのだけれど、何故か初日からお菓子が入ってた。
一応報告すると、社長は一瞬眉を跳ね上げ、「お前にだろう、取っておけ」と投げてよこした。
どうやらスパイさんから俺にらしい。
ありがたいんだけど、なんだかなぁ、前の仕事場といい、俺はそんなに甘党に見えるだろうか。
なんだかなぁといえば。
「お、坊主、サボってんのか?」
「休憩です、というかなんでこんなとこに来るんですか?」
「俺の会社なんだから、俺がどこにいたって構わないだろ」
いや、構うだろう。
自動販売機のある休憩コーナーは、会社の裏の裏、社長が来るような所じゃない。
しかし社長のランサーさんは、缶コーヒーを買った後にっと笑って手を出してきたので、仕方なくベビーチョコを半分分けた。
「こんな時間にアルバイトたぁ、坊主は苦学生だな」
「社長もご苦労様です。俺は別に苦労はしてません」
この会社は半分以上が海外相手だから、三交代で24時間稼働している。
社長は最近、専ら夜間にやってくる、んでなぜか俺にちょっかいかけてくる。
「あの…仕事あるんじゃないんですか」
「俺、雇われ社長だから、飾りだから」
大嘘を吐くな、最初こそ雇われだったけど、役員株主みんな味方に付けて乗っ取ったくせに。
「また買収成功したそうですね、おめでとうございます」
「む…坊主までもが俺のことを血も涙もないハゲタカファンド社長だと思っているな?俺も辛いんだ、色々と」
缶コーヒーでチョコを流し込むと。
「坊主も大人になればわかるぞ、サラリーマンのこの辛さ。社員に恨まれ女房に馬鹿にされ…」
「奥さんいないでしょう」
「そりゃあな…」
ふっと、一瞬空気が変わり、すぅと目を細める。
「仕事が楽しいからなぁ…」
楽しい楽しいといいながら、今日も買い取った会社の再建策に役員の総退陣を命じてるわけだ。
やっぱり社長ってのには禄なのがいない、今の俺の雇い主とか。



その最悪な俺の雇い主は、俺の口頭報告を聞いてますます不機嫌の様子だった。
「なんだって潜入先の社長と接触を持つ?」
「俺が好きで近づいてる訳じゃ…」
「同じ事だろう、いいから全力で避けろ。…お前の素性に感づいているのかもかもな」
威圧機能重視の真っ黒なマホガニーのデスクにふんぞり返っている。
しかし俺が入り込んでまだ一週間なのだから、それで素性がばれてるって…
「そりゃ明らかにそっちの不手…」
「なんだ?」
「なんでもないです!」
地獄耳の我がマスターに挨拶をして部屋から出た、大きな大きな窓には百万ドルの夜景が広がる。
ここは新都で一番宿泊料の高いホテルのとっぺんの部屋。
「いちいち深山町まで帰られては非効率だ」
というマスターの一言で、スイートの一室をあてがわれてしまった。
学校へは例の黒塗りで秘書さんに送迎されている。
「…わかってる」
わかっている、この状況はおかしい。
決して少なくはない額を払い、非合法の取引をしてまで俺を雇ってやらせる仕事ではない。
送迎もホテルのあてがいも、俺を目の届かない所へやりたいくないからだろう。
だとすれば、さっきのセリフは当たりかも知れない、俺の素性が、最初から知られているとしたら?
「……」
考え事をしながら風呂を使って、寝室に入った。
(囲い込まれている?でもどうして…)
言峰に連絡してみるか…いや、囲い込みが事実だとしたら、これはチャンスだ。
俺の目的が、やっと果たせる時が来たんだろうか。
「おい」
呼ばれて振り返ると、マスターがボトルを片手に手招いている。
「は…なんですか?」
「酒の相手をしてくれ」
ちらりと時計を見ると、一応勤務時間は過ぎていた。
「残業扱いですか?」
「書類を書くのもやぶさかではない」
そこまで野暮じゃない。
「いえ、お付き合いします」
「そうか…」
小難しそうな真顔で、こんな事を言う。
「勤務時間外は敬語でなくていい」

おかしいのに居心地がいい。
居心地がいいけれど、此処は鳥かごの中。

だから、小さく「わかった…」と返事をした時、俺は血迷っていたんだと思う。
十年ぶりの一人ではない夜に。






第五話 社長と定食屋



早く見つけなければ、早く早く。
声を顔を影を、忘れないそのうちに。
そして俺が変わってしまう前に。

早く会いたい人がいる。


エントランスのガラス張りから、表の灯りを眺めた。
夜の景色はいつも、輝く灯りが押し返せない黒。夜の街で、こうして働き始めてからもうどのくらいだろうか。
ふと思いを馳せかけて我に返り、辺りを見回したが誰もいなかった。
人気のない時間、表も灯りはあるものの人の往来はほとんど無く静かなものだ。
設置されている観葉植物の手入れをすれば、今日の仕事はおしまい。
葉を一枚一枚、丁寧に拭いてゆく。
本職からすれば、清掃の仕事はついでに当たるが、手を抜けないのは性格だろう。
そしてそんな性格を、あの男に見込まれたのかも知れない。
突然の別れ、一人ぼっちの家が広すぎて片隅で泣いていた。
そのつま先に延びた長い長い影、呼びかけはたった一言、「少年、お前は泣いていたいのか?」。
…そうじゃないからついていった、そうじゃないからここにいいる。
だから、
「おい、坊主、そこやったら上がりだろ?」
「はい、そうですよ」
誰もいなかったエントランスに、ひょっこり現れる影。
「飯行かねぇか?奢るぞ勤労学生」
「いいですね、御馳走になりますよ」
敵か味方か、飛び込んでやろう、いつだってそうだったのだから。
失う物なんて何もない。


「サバ味噌定」
「同じやつ」
ビルとビルの細い隙間に、すっぽり入り込んだ小さな店。
デコラ張りの机にがたつく椅子、ボール紙にマジックで書いたお品書きが壁一面に貼られた伝統的な定食屋だ。
営業時間は遅めだが、周辺の会社の時間に合わせてあるのだろう。
ブラウン管のテレビが、一番遅い時間のニュースを流している。
「ご苦労さん、いつもこの時間か?」
「そうですね」
ネクタイを緩める様子が妙に様になる。
「俺はこの時間はここなんだけどな…学校あるんだろ、親は心配しねぇの?」
「いえ、一人暮らしですから」
へぇと目を見開き、なるほどねと頷いた。
それから二三質問に答えたが、やがて居心地悪そうに眉を寄せる。
「あー…、なんだ」
おしぼりで鼻の辺りを擦りながら。
「今は仕事じゃねぇだろ、敬語はいい」
…なんだか憶えのある状況だ。
戸惑っているとぐっと顔を寄せられ、半ば恨めしそうに文句を付けられる。
「なんだよ?俺とお前、そこまで歳違わねぇだろ」
「そうですけど」
立場の違いというものがあるのだが、どうやら本気で言っているようだ。
どうしたものかと躊躇っていると、なんだか不機嫌になってきた。
ええい、本人がそう言っているんだし、いいか…
すうっと息を吸って、意識を切り替えた。
「わかった、そうするよ」
答えた途端、不機嫌があっさりと笑顔に取って代わる。
「お、そうそう!敬語じゃビールが不味いんだよな。おばちゃんコップ二つ」
「あんた仕事あるだろ!」
「坊主は上がりだろ、お前だけ飲むか?」
「お冷やでいいよ」
笑顔は邪気無く見えて、ついつり込まれそうになる。
駄目だ駄目だと自戒しながら、口元が緩んでいる。
温かい眼差しを、感じながら信じることが出来ないことだけが辛い。


鯖ミソ定はほうれん草のおひたしがサービスで付いた。
他愛のないニュースや音楽やそんな話をかわす。何気ないフリをして言葉を慎重に重ねて行く。
何を考えて、何のために、今夜ここに?
ふと、この質問は直接ぶつけて構わないと気が付いた。
「でも、どうして俺を誘ったんだ?」
「ん、いつもは一人だけどな。今日は坊主が暇そうだったから…」
やっぱりそう言うよなと納得し掛けたところに、
「…って言うのは真っ赤な嘘だ」
あっさり言われて、内心驚いた。
「…嘘なのか?」
「社長様がエントランスにわざわざ降りるかよ」
清掃員の休憩所まで来ておいて。
しかしこのくらいは予想できている、これ以上は話して…
「なぁ坊主」
「ん…なんだよ」
「もしかして、坊主は訳ありか?」
「…!」
ほうれん草が飛び出した。
「ご…っ!げふっ…ごめん!」
「おいおい大丈夫か?」
渡されたコップの水を飲んで、尚も何回かえづいた。
こいつは…駆け引きも何もないのか。
高そうなネクタイにほうれん草が付いていたが、対して気にする風もなく、ティッシュで摘んでしまった。
「…なんで」
「いや、ベンツで送迎付きだろ?なんか訳があるのかと…」
見られたのか。
結構離れた公園で待ち合わせているから、見られることはないと思っていた。
いや、そもそも偶然なのか?付いてこられていたのか…
どこまでが嘘でどこまでが本当なのか、単刀直入な問いかけはジャブなのか。
「……」
返事をしなければ、けれど、どう答えたものだろうか。
顔を伏せるフリで考えをめぐらすも、言葉が出てこない。
注がれる視線を感じるが、やがてぽつりと声が降ってきた。
「いや、悪かった、答えにくいよな」
少しトーンの落ちた声は、大人に感じる。
いつも、俺を笑いながら呼んだのとは違う声。
「…でもななんつーか、坊主も俺と同じなんじゃねぇかって思ったんだ」
顔を上げると、真っ直ぐ目を覗かれてドキリとした。
「何か別の目的のために、今の仕事を手段にしてる、違うか?」
「…社長も?」
牽制のつもりで質問し返したのに、
「ああ、俺は人捜しだよ」
あっさり肯定された。
ふっと視線を逸らして。
「まぁ…多分死んじまってるんだけどよ」
…ひときわ大きく、テレビから歓声が流れた。
延長の末に逆転サヨナラホームラン。店中の視線が画面に注がれる中、見たことのない表情を覗いている。
胸が小さく、だんだん強く打つ。
「あの…」
「ん」
「就業規則に無駄口叩くなってあるから、今から独り言いうよ。でも全部話す訳じゃない」
目が促す、俺は口を開いた。


(瞬間、ふっと、酒に上気したあいつの顔が浮かんだ。
酒が入るとああなんだろうか、こっちの話をやたら聞きたがって、勝手に説教して。
頭をぐしゃぐしゃされた。
今此処で話せばきっと何かが動き出す、そしてまた、さようならの時間。
暖かだったあの手のひらとも)

ほんの微かに胸の奥が痛い。




第六話 社長と秘書



むかしむかし、事故で家族を亡くして、独りぼっちになった男の子がいました。
けれど男の子は泣きませんでした…泣けませんでした。
その事故で自分と同じように家族を失った人は多くて、もっと小さな子だってそう。
だからその日も泣きもせずただ、病室の窓から空を見上げていました。
もう、家族が誰もいないなら、自分は退院した後どこにゆくのだろうと。
もちろん、施設に行くのかなとぼんやり予想はしましたが、それがなんのためだかわからなかったのです。
自分のことで悲しむ人も喜ぶ人もいないのに、なんで生きているのか不思議でした。
雲の無い空を見上げながら、今なら泣けそうな気持ちになっていた時、その声は小さくためらいがちに、
「士郎くん」
男の人の声。
看護婦さんでも先生でも無い声でした。
「すまないね…考え事していたのに」
まだ若い、でもそれにしては身なりをかまわない男の人でした。
長いコートはやけにくたびれていたし、不精髭がちらほらと。それになにより…ちょっと普通の人と違う感じの人です。
ただ目が優しい。
「なんですか?」
そういえば、個室なのにドアを開ける音がしなかったなと思いましたが、考え事をしていたせいでしょう…
「あのね、不躾なお願いなんだけれど」
頬を照れたように掻きながら、
「あの…僕の家族になってくれないかな?」


あの青い空、今は夜の底で懐かしく思い出す。


「なんだって勝手な行動を取った」
いつもにも増して不機嫌な様子は、眉間の皺で手に取るようにわかる。
黒檀だかなんだかの馬鹿高いデスクの向こうで、牛革の椅子にふんぞり返っているのは、社長の最大公約数みたいな絵だ。
しかしこの人の場合、それを自覚してやってる節がある。かなりシニカルな性格なのは分かって生きたのだけれど、
「申し訳ありません、断るのも不自然かと思いました」
「だからアレには関わるなと…」
全く…と頭を振る、ここまで露骨に当て付けるか普通。
こういう子供っぽい所もあるのだ。
「しかも余計なことをぺらぺらしゃべりおって」
「いや、ちゃんと話すべきでないこととの区別はつけました」
「その判断はこちらでさせてもらう」
言って一瞬こっちを窺う。
なんというか、気を遣われているような、そうでないような。
「わかりました、今後気を付けます」
「…いつまでも今後があると思うなよ」
こっちがきびすを返した瞬間に言うのが、嫌味ったらしい。
扉をでると、秘書のライダーさんが待ち構えていた。
「おはようございます士郎。今朝は遅くなりましたね、送りましょう」
「いや、さすがに昨日今日ですし」
そう断ると、表情を曇らせた。
「申し訳ありません、貴方の送迎が知られたのは私の不注意でした」
「いえ、そんなことは…俺も気を付けるべきでした」
「知られた以上堂々としておいてしかるべきでしょう、時間も遅いですし」
意外とスピードを出す彼女の運転は目覚ましに良い。
「じゃあ、お願いします」


毎日の送迎の中、彼女がそう無口なばかりではないと知った。
特に車の運転は大好きなようで、今朝も表情はクールながら人差し指でキーをくるくると回している。
俺を助手席に座らせて朝日の中に滑りだすのだけど、フロント以外が全部スモークの業界仕様車なので、まるで夜の続きだ。
「昨日の食事のこと、報告したのは…」
車窓の向こうを流れる、街の景色を眺めていてふと思いついて尋ねた。
「申し訳ありません、仕事なので」
申し訳ないとは言うが、ほほえむ姿はそう悪怯れているようには見えなかった。
まぁ悪くない。
「いいえ、仕事なのはお互い様ですから」
「…彼のこともどうか悪く思わないで下さいね」
彼…?
「ああ、エミヤ社長の…お二人って、やっぱり?」
「違いますね」
涼しい顔で、俺の勘繰りをにべもなく否定した。
「彼とは目的を同じくする仲間ですから」
あくまで社長と秘書、このひとがそういうのなら、そうなのだろう。
楽しそうに笑いながら、
「気になりましたか?」
「え、ああ、…はい」
毎日こんな美女に送迎してもらって、気にならないわけが…
「彼、いつもはもう少しクールなんですよ」
って、おい。
「そ、そうなんですか?」
「ええ、今回のことも、士郎でなければ黙って解雇するだけだったでしょうね」
「いや、その…」
「弟のように思っているんでしょう、羨ましいですね」
なんか…誤解が…。
「…貴方との距離を測りかねているんですよ、ずっとおひとりでしたから」
「……」
「それは貴方もではないですか?士郎」
「あの…」
上げた声は彼女の瞳に吸い込まれた。
深い深い色は、雨の日の海の色。
凍えそうな悲しみ。
「早く見つけなければ、士郎、夜の闇に瞳が慣れてしまうと、見えなくなるものがある」
ぐっと加速する。


学校近くの公園で降りた、その去りぎわに、
「ああ、そういえば、私はお使いをしなければいけないんでした」
白々しくも彼女は、そして俺は、
「何を?」
「先日はベビーチョコを、今日は板チョコにしますか?」
…胸が騒めく。
「…お二人は甘党で?」
「いいえ、私もエミヤ社長も甘いものは余り」
謎のように微笑み。
「貴方は好きでしょう?士郎」
リアウィンドウに笑みが遮られ、朝の清冽な空気をそこだけ夜の闇と同じ色の塊が滑り出してゆく。
もう遠い昔に思える…俺はあれで連れてこられたのだ。
目眩がした、闇に目がくらんだ。


そしてどこかで、
ちりちりと電話のベルがなる、ひどく古風な呼び出し音。
大仰に受話器を取り、顔を顰めた。
「…お前か、余計なことはするなとあれほど…」
それを聞いているのは、闇より黒い服の男。
胸元の十字だけがきらめき、表情など見えないのに、なぜか笑っている気がした。
「わかった、もういい、…感付かれるだろう…ああ、気を付けろ」
チン、と受話器を置く音が、闇に吸われてどこにも響かない。


俺は途方に暮れる。
暗い暗いここは夜の底の底。
なにもかも疑ってかかれと、肝に銘じていたつもりだったのだが。
手には板チョコ、今日受け取った紙袋のなかに、封筒に添えられて。
そう言えばふんわりと香る、優しい香りには憶えがあったのだ。
…愚かにも気が付くのが遅れた。


さあ、誰を信じる?





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