起承転結の起
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ある朝目覚めると、頭が痛かった。
前日何事か無理をしたか、風邪か寝冷えか悪いものでも食べたか。
普通はそう考えるのだろうけれど、俺の場合は端から理由がわかっていたりする。
鈍く痛むこめかみを押さえながら布団を抜け出し、居間へ入ると、案の定遠坂がいた。
「あ、衛宮君、おはよう」
卓袱台に突っ伏していたのが、俺の気配に気が付いて慌てて優等生モードになる。
「おはよう遠坂、いったい何をやったんだ」
「あ、あれ…」
指さした先には、電気ポットがあった。きのうと何の変わりもない。
強いて言えば掃除でもしたのか、古いポットが綺麗になっているだけだ。
「壊したんなら俺を呼べばいいだろ」
「士郎、昨日セイバーと稽古してたでしょ。起こしたら悪いと思ったのよ」
「だからってアーチャーを呼びつけるのは…あいたた…」
「やっぱり痛いの?悪かったわ、士郎の部屋からは離れてるから平気だと思ってた」
珍しく本気で済まなそうにしているので、これ以上責めるのはやめることにした。
にしても、痛む。軽い吐き気を憶えて手洗いに向かった。
「困ったものですね、最近はとみにひどいようですし」
「そうなの、呼び出すのにいちいち士郎が居ないか確認するってのも面倒だし」
その昼に、セイバーと遠坂の二人は俺を呼び出した。
「別に死ぬわけじゃなし、気にしなくても…」
「あんな気持ち悪そうな顔されて気にならないわけないでしょう」
「シロウは普段、ほとんど体調を崩しませんから、皆心配するのですよ」
「そうか…」
余計な心配は掛けたくない、けれどコレばかりは、俺にどうしようもない。
それに気が付いたのは、新学年を迎えてからだった。
街中、商店街、俺の家や遠坂の家や…場所も時間も状況も選ばずに、
突発的におそわれる頭痛と眩暈、ひどいときは吐き気までこみ上げる。
短くて十分ほど、長ければそれこそ半日続く症状に困り果て、遠坂に相談した結果…厄介なことがわかった。
「あ、士郎、いたわね」
「遠坂、何だ?」
五時間目の授業の最中、また吐き気と頭痛に襲われて仕方なしに保健室の世話になっていたところだった。
入学以来、風邪で休んだことさえない俺が体調を崩しがちなことは、職員に知れ渡っていたらしい。
サボりには厳しい保険医が、何も言わずに窓際の一番良いベッドに寝かせてくれていた。
「ねぇ、歩けそう?」
「ん、多分大丈夫だけど、何か用事か」
「ちょっと屋上まで、いい?」
手洗いに行くと書き置きをし、遠坂と二人で廊下に出た。
そして屋上を目指した…のだが。
「遠坂…あのさ」
「階段昇るほど気持ち悪くなってくるんでしょう」
「そうだけど」
「屋上にね、士郎の頭痛の種が居るの」
居る?
そうして、どんどんひどくなる痛みと吐き気と戦い、ようやく屋上の扉の前に着いた。
頭は痛みを通り越して熱を持ち、胃が空っぽだからはけないだけで、胃液が逆流してきそうだ。
「士郎、あんた戻っていいのよ」
「いや、誰か知りたい…から」
そんなもん、保健室に戻って遠坂に聞けばいいのだが、俺はどうしてもこの目で確かめたかった。
何度かした予想、きっと当たっているけれど、確かになるまではと思って、
いたのだけれど、
そうして、体で押し開けるように扉を開いた。視界に入った黒ずくめは、そう、何度か見たことがある。
いつも、タイミングの悪いときに姿を現すもんだと思いながら、避けて通っていた。
でも、どうやらタイミングが悪かったのではなく、悪くなっていたらしい。
「あ…あ」
姿を認めた途端、目が灼けるように熱を帯びた。
視界を失い傾く体に、追い打ちのように頭が重くなったような感覚、眩暈だ。
堪らず片膝をつき、留められずに上半身が落ちた。
「おい…!」
聞いたことのない、狼狽した声がした。それがガンガン頭蓋骨の中で反響する。毒のよう。
「駄目よアーチャー、近づかないで。ビンゴだったみたいだから」
遠坂が寄り添う気配がする。ああ、くそ、頭…割れる。
「あなたが悪い訳じゃないんだけど、この様子じゃ、少し考えた方が良いかもしれないわね」
「了解した…悪かったな、衛宮士郎」
別にあんたが悪い訳じゃないと、言おうとしたが気配は瞬間去ってしまっていた。
それから、街中や家で頭痛その他に悩まされることはほとんど無くなった。
頭痛の予兆に当たる妙な頭の重さに気が付くと、なるべく場所を変えることにしたし、
あいつもおそらく、鷹の目で俺を見つけては避けてくれているのだろう。
時折、どうしようもないニアミスはある。同じバスに乗り合わせてしまったときはあいつが降りてくれた。
本当に申し訳ないとは思うのだが、俺にもコレはどうしようもない。
「同じ世界に同じ人間…このくらいで済んでるのが不思議なのかもね」
遠坂曰く、そういうこと。
究極の矛盾が生み出す歪みの代償は、本人に取らせると世界は決めたらしい。
確かにそれが頭痛やら吐き気なのなら、破格と言わざるを得なかった。
病院に行っても異常は無く、受験を迎えたストレスじゃないかとしか言われなかったし。
特に不都合もなく日々は巡る。
先ほどのようなことはあるが、遠坂とアーチャーは特殊な契約関係にあるから通常は別行動だ。
俺はここ三ヶ月アーチャーの姿を全く見かけない以外、特に変化もなく過ごしていた。
戦争中はともかく、平和な今となっては会うべき理由もなかったからだ。
そうして季節は移り、七月の初めの、気分の良い風が吹く。
洗濯が午前中に終わった事に気をよくし、昼までに土蔵を片づけようと潜り込んで小一時間になる。
明かり取りの格子から、細切りにされた夏の日差しがそこだけ暖めているのがきらきらしていて。
この時期でもうっすらと寒い土蔵に、薄着で籠もる自衛策に、その日だまりに座り込んでいた。
その格好で、遠坂が壊したラジオをいじり回して小一時間。
指先に意識を集中すると、意識が切り離されて別のことを考えていることがあるが今日はそうだった。
先日遠坂とセイバーの部屋で話し合ったこと。もちろんアーチャーと俺の状態改善に向けて。
結局打開策は見つからなかったが、終わりがけに遠坂が呟いた言葉が今も引っかかって取れない。
「アーチャーの方には負担が行ってないのかしら…それが心配なのよ」
あ…くそ、何やってるんだ…。ハンダ付けを失敗してコードが駄目になる。代わりを探して立ち上がる。
光の輪を抜けると、ひやりと首筋が冷える。
(俺、馬鹿だったな。そうだよ、アーチャーにペナルティが行ってない訳がない)
一つの世界に二人のエミヤシロウがいる。
責任が等しいのだから、ペナルティは当然アーチャーにも降りかかっているはずだ。
自分の都合が良ければ、他人に思いが至らないなんてサイテイだ。平穏無事だなんて、何を考えていたんだろう。
そう付き合いがあったわけではないが、アーチャーは自分の危機とかを後回しにするタイプだと思う。
今俺がこの状態で、アーチャーが俺の活動圏を避けてくれているのなら、
当然遠坂との接触も減るわけで、何かの異常に気が付かないことだってありえるのだ。
馬鹿だ…本当に、いつまで経っても俺は…。
「いてっ…」
ジャンクを突っ込んでいる箱をかき回していると、どうやら指を切ったらしかった。
綺麗にすっぱり。見る間に赤い玉が膨らみ、それが形を崩したとき。
「へあっ?」
思わず妙な声を出してしまった。
血が流れ落ちる瞬間に消失した、ように見えたけれどコレは…
正確には、おそらく、
「だ、誰だよ!?」
指先に生々しい感触が残っている。濡れた指をどうしようもなくて持ち上げたままにしていると、声がした。
「私だ」
この声は、ええと…
「…アーチャーだ」
「な、なんなんだ…っていうか何処にいるんだ」
「隣だ」
耳元でした声に即振り向くが、湿ったコンクリートの床を窓からこぼれた明かりが照らしているだけだ。
姿を探して視線を巡らせると、呆れたような声がした。
「霊体化しとんるんだ、馬鹿たれ」
「誰が馬鹿だよ!いきなり入ってきて指嘗めてって、なんのつもりだよ」
ふん、と鼻を鳴らす音がする。
あー、こいつアーチャーだ。
久しく聞いていない声だが、この見境なしに人を苛立たせる笑い方は、嫌になるほど憶えている。
「血についてはもったいなかったからな…ときに貴様、いつものように気分が悪くはないのか?」
「え…」
我に返って、冷静に体の様子を探る。
「いや、頭痛もしないし、気分も悪くない」
「やはりな」
やおら、扉の方向に声を張り上げる。
「凛、セイバー、予想通りだ」
すると扉が開き、そこから二人の顔が覗く。
「シロウ、平気ですか?」
「あ、ああ。二人とも入ってきたらどうなんだ?」
「ううん、あたし達はすぐに戻るし…あの、今日は私とセイバー、家に泊まるから。桜も誘っておくわ」
急に妙なことを言い出す。
「え…なんだよそれ」
「事情はアーチャーが説明してくれるわ、いい、士郎、よく考えて決めるのよ」
意味深すぎる台詞を残し、セイバーと遠坂は引っ込んでしまった。後には俺と、アーチャーが残る。
「つまり、霊体化していれば、俺の体調が悪くなることもないって訳か?」
「ああ、そのようだ。お前が肉体のまま私が霊体化することで、世界は私たちを“別個”として認識する…のだろうな、想像しか出来んが」
「ふうん…。俺は助かる、けど、お前はどうなんだ、アーチャー」
「どうというと?」
「ペナルティ…俺が体調を崩すみたいな、そういうの、お前はないのか?」
「ようやく気が付いたか。全くお前は、鈍感で愚鈍で尽くし甲斐のない奴だ」
ひどい言われようだが、今回ばかりは仕方ない。
「やっぱり、あったのか」
「まあな」
すぐ隣にあって、近すぎるくらいだった気配がふっと遠ざかる。
「どこだ?」
「ここだよ」
声の方向からして、壁際に置いてあるクーラーボックスに腰掛けたようだ。
俺も椅子をずらし、それに向かい合うように座る。…姿が見えない相手と向かい合うというのは、随分間抜けな感覚だ。
「具体的には、どんな症状が出るんだよ」
「…サーヴァントは人間よりも精神よりの存在だ。
同じ世界に、人間と、その人間ベースのサーヴァントがいれば、はじき出されるのがサーヴァント側なのは道理だな」
「それって…」
「ああ、お前といると、存在をつなぎ止めるのがやっとだよ」
「じゃ、近くにいるわけには…」
「だからといって避けてばかりでは仕方なかろう」
ジロリと睨まれた気がした、多分気のせいじゃない。
「悪かったよ」
「いや、私にも責はある。ここまで大事だと自覚したのは、ほんの数日前だ」
ふう…とため息を吐き。
「まぁ凛と話した結果、手がないわけではない事がわかった。今日ここに来たのは、それに関してお前に相談があるからだ」
「そりゃ、協力するぞ」
即答する。
「いいのか?安請け合いすると後悔するぞ」
「するわけないだろ、しなきゃお前がいなくなっちまうんだから」
「相変わらずのお人好しだな」
「うるさいな」
「ま、そうだな、いつかの矢代、と言うことにでもしておくか」
ならば余計にだろう。あの一射は、俺の命を救ってくれたのだから。
「もったいつけんなよ、何をすれば良いんだ?」
「先ほどお前の指を嘗めたのは、嫌がらせでもあるが、ちょっとしたテストだよ。出来ないこともないようだな」
「なにがさ」
「セックスだ」
…ええと?
「誰が?」
「私がだ」
「誰と?」
「貴様だ」
…えーと?
「なんでさ」
沈黙が落ちる、黒く湿ったコンクリートの床に。それを明かりが、緩慢に暖めてゆく。
衛宮士郎は何事か発言しようとしてそれをやめ、手を口元にやって床に視線を落とした。
(ずいぶん表情が豊かになったんだな…)
三ヵ月ぶりに、まともに姿を見た感想はそれだった。
戦争中は、全力で突っ掛かってくる反抗的な視線と仕草しか記憶がないし、
戦争後街中で顔を会わせると、いつも気分の悪そうな顔をしていた。
大分嫌われたと思っていたので、その表情に理由かあるのだと解ったときには少し安堵したのだ。
今はもう憎しみの溶けて消えた相手にあそこまでひどい表情をされると、さすがに堪える。
今衛宮士郎は動揺を素直に表に出している、私が目の前にいるのに、
いや、姿が見えないから、意識できていないだけだろうか。
どちらにしろ物珍しく、床の一点を凝視し続ける顔を見つめていた。
「パスを…通すわけか」
「そうだ」
やがて顔を上げ、こちらを見るものの視線が少し外れている。体を動かし、正面に移動した。
「そうすると、お前が消えずに済むのか?」
「ああ、それに貴様の症状も無くなるだろうな」
「どういう理屈なんだ」
「つまりな…」
今私は霊体化してお前の前にいる、それで違和感が無い…頭痛も何も起こらんということは、
世界はどうやら、仮初めのものとはいえ肉体と霊がひとつの組になったものを、個として認識していると予想できる。
つまり霊体のみの私は、霊と肉とを持ったお前とは別の存在だと認識するわけだ。
「わかるか?」
「ああ、わかる」
神妙に聞き入っている。
「しかしこれは面倒だ、私もこの世界では人並みに暮らしているから、霊体のままでは不都合もある」
だから今度は、肉体を消すのでなく霊体を消す。
「消す?」
怪訝な顔をする。
「パスを通して霊体をつなぐ。私とお前の霊基構造は同じだ、おそらく世界は一つのものと誤認する」
そうなれば万万歳、つまらない頭痛に悩まされることも無くなるだろう。
「そんなに適当でいいのか?」
「恐らく成功するだろうよ、今霊体化した私を誤認しているのが何よりの証査だ」
一通りの話を終えると、静けさが降りた。
まぁそうだろう。こいつはごく普通の性嗜好を持った、健康的な思春期の少年だ、相当の逡巡があるだろう。
全く、みっともないほど狼狽えきり、頭を抱えている。
けれど正直なところ、断られない確信はあった…なにせこいつは衛宮士郎なのだから。
やがて衛宮士郎は顔を上げた、ほんの二三分でずいぶんやつれたものだ、同情してやろう。
「…わかった、協力する」
全く、
「感謝する」
「別に…俺も頭痛が治るし、イーブンだ」
そう言った後、またもうつむいて何事か呟いているので、近寄って聞き耳を立てた。
「あの…やっぱお前がその…上なのか?」
「やっぱりも何も、貴様童貞だろう」
「うわあぁぁぁぁ!」
耳元で指摘してやると、奇妙な鳴き声を上げて椅子ごと引っ繰り返った。愉快な奴だ。
「何をしている、馬鹿もの」
「ち、近いだろ!」
腕を掴んで引き起こしてやると、また微妙に見当外れの虚空に向かって文句を付けている。
「ど、童貞だからこそだろ!トラウマになったらどうしてくれるんだ!」
「男女共にダメになるなら、石部金吉の今と大して変わらんだろう。
万が一男に目覚めたなら…おめでとう、貴様が私になる確立は0だ」
「ば…ばかやろぉぉぉ!」
誰もいない空間に拳を突き出しているのがさすがに哀れになり、どうどうと背中をいなした。
「はー…っ、はー…っ…」
無駄に叫んだせいで、肩で息をしながら椅子に戻った。からかい甲斐のあるやつだ。
「なんか、お前イメージと違うな」
「イメージ?」
「…もっとクールな奴だと思ってた、ちょっと憧れてたのにさ」
不貞腐れたように自分勝手なことを言っている。
「お前の期待に添う理由など、あってたまるか」
「わかってるよ、いーだろ、別にさ」
顔は相変わらず、言外によくないと言っている。
まぁ気に入らないといえばそれが気に入らなかったし、
真面目に確かめるつもりもあったし、
意外とからかい甲斐のある奴だったことで、悪ふざけがすぎてしまったのかもしれない。
「それなら失望ついでだ」
椅子の背もたれを掴んで、顔を近付けるとほら、驚いて声のしたほうを向く。そういうところが、愚鈍だというんだ。
唇を重ねる、一瞬二瞬何が起こったかわからないらしく固まっている。
三瞬四瞬潜り込んできた舌にようやく自体を理解したようだ。
声にならない叫びをあげ、椅子から立ち上がる背中を捕まえた。
「ふぅ…んっ!」
白状すると、この半泣きの涙声は確かにそそった。
しかしそれは、体に響いただけのこと。
歯を一つ一つ確かめ、舌を舌で舐める。
奥に逃げ込む舌は追わずに、顕になった粘膜をなめると、はっきり体が震えたのが解った。
潮時だなと、体を放す。
「あ…はっ!なにするんだ!」
「試してみたんだ、まぁ霊体のままでもできそうだな」
「ひっでぇ…」
「…なんだお前、キスもしたことが無かったのか?今のはノーカウントでいいぞ」
「当たり前だ馬鹿!」
声を荒げても、床にへたりこんでいるのでは迫力も何もない。
ひょいとしゃがんで顔をのぞいた、涙目だ。
「…夕方にまた出向く」
告げて立ち去る。
振り返らなかったので、衛宮士郎がどんな顔をしていたのかは知らない。
(…ノーカウントでいいぞ)
「当たり前だっつーの!」
気合い一閃、鶏卵の黄身を潰す、あとは切るように、混ぜすぎないように。
しかし、土蔵でのアーチャーには参ってしまった。まさかあんな奴だったとは。
思えば聖杯戦争なんていう異常自体のなかでしか触れ合っていない…というか、まともな会話をしたのはさっきが初めてだ。
あの時はお互い思い詰めてたよなー…なんて、無事な今だからこそ言えるのだけど。
あまり笑わない男に苛立ちもしたが、「そうありたい」理想の自分。
信条だとかの深いところだけでなく、引き結んだ口元のように、皮肉なスタイルを崩さないありように憧れていたのは本当。
だから、毒気の抜けた先程のやりとりに拍子抜けしたのも本当。
でも、
「…本当の本当は、そうじゃない」
それくらい、俺だって分かっているさ。
一度俺が「全部切り捨ててでも、正義の味方になる」と言えば、
あいつは仕方ない奴だと苦笑いしながら、俺を殺しにくるんだろうな。
でも、たぶん俺はそういうところが…
「豆腐が崩れるぞ」
「ああああああっ!?」
またも俺は、背後に降って湧いたアーチャーに驚かされてしまった。
「失礼な、驚かせまいとしばらく背後にいたんだ。
なのにお前は手のひらで豆腐を温めるのに夢中になっているし。それは新しい健康法か?」
「そんなわけあるか!」
確かに姿は見えないが、どういう顔をしているかはわかる。
意地の悪い笑みを浮かべているのに間違いない、口振りから表情が伺えるのだ。
「ったく…。あー、今夜は親子丼と豆腐サラダだからな」
「…サーヴァントに積極的に食事をさせよう何ていう馬鹿は、お前くらいだろうな」
しんみりした口調におやと思ったが、
「ふん…親子丼か、暗示的だな。大体鳥肉も卵も豆腐も蛋白質だろう、これもまた暗示的な…」
俺は、理想の自分を今刺し殺したほうがいいだろうかと悩んだが、
更正の可能性も捨て切れず、代わりに豆腐に包丁を刺した。
夕食は滞りなく済んだ。
というか、箸が空中に持ち上がり、料理が空を飛んでは消えていく光景に目が釘づけになってしまっていたのだ。
(つまり俺もああなるわけか)
風呂で思い至ったのはそこのところ。
アーチャーのあの技は、物に触れている部分だけを限定して現界させているのだろう。
昼間のキスは、そのための集中力が保つものか試したに違いない。なかなか小器用なことをする奴である。
けれど、キスとあれじゃあ全然違うよな。でもアーチャーは自信がありそうだった。
まぁ儀式なのだから、割り切っていけばなんとかなるのだろう。
自分には経験が無いから、万事アーチャーに任せるしかない。
恐くはあるが、昼の様子を見てみると、安心できる気がした。
(む…まさかそのために?)
それはないな、アレは完全に俺をからかって遊んでた。
けれどお互いのため、少々気の滅入る時間をこれから過ごすことは、アーチャーも俺も同じだ。
ならば少しでも、スムーズな進行のために努力しないと。
アーチャーの指示は素直に受け入れることにしよう。
ざっと冷水で体を流し、風呂をあがった。
理由さえあれば、溺れることなどないと思っていた、昔々の自分。
深呼吸をしてから、一息に襖を引き開けた。
一組だけ敷かれた布団の、ああ、そこにいるのがわかる、その前に座る。
頬に手を添えられたのを感じた。
「今更だが、本当に大丈夫か?」
「本当、今更だな。いいんだよ、こんなことで消えられても後味悪いだろ」
「そうか」
一言。
そしてぱちりと明かりが消え、闇のなか、熱を孕んだ質量が、俺を布団に押し倒した。
「目は閉じておけ、姿が見えんでは気持ちが悪いだろう」
「ん…」
そうして感じるのは、熱とシーツとアーチャーだけになった。
パスは問題なく繋がった。
元々相性という観点から言えば最高の体なのだから、十中八九間違いなかったということは後になって聞いた。
「アーチャー…?」
その男の姿を、俺は月上がりの中で見た。
疲れ果てて動けない俺を風呂に入れ、寝かしつけて立ち去ろうとしたその袖を捕まえて呼んだ。
「なんだ、さっさと寝てしまえ」
髪は燃え朽ちた炭の色、一度も自らの痛みを顧みなかった証の黒い肌と、夕暮れ色の瞳を見た。
「あんた、そういう顔してたんだな」
「ふむ」
ぐっと顔を寄せてくる。
「どうだ?」
「悪くない」
将来こういう顔になるのは間違いないわけで、それでも悪くないと思えた。
「そうか、ま、これからは時々顔を合わせる事もあるだろう」
「そうだな、もう見えるんだから」
「じゃあな、凛達にはよろしく言っておいてくれ」
「ああ、また」
そう、別れをかわして、俺たちはあっさりと別れた。
俺は疲れもあって、次の日遅く起きた。
遠坂達は最初おそるおそるだったが、うまくいったこととアーチャーからの言伝を伝えると。
「ま、仕方ないことなんだから早く忘れた方が良いわよ」と笑ってくれた。
「明日から、アーチャーをまともに見かけられる訳か」
「ケンカとかしないでよ、魔力の無駄なんだから」
「多分大丈夫だ、昨日も特に揉めなかったし、あいつ本と吹っ切れてるよ」
「あれだけやって未練たらたらとか、冗談じゃないわよ」
笑い合う。もう昨日の夜の事なんてほとんど忘れている。
まだ恋を知らなかった頃。
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