Golden Week



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薫風香り立つ頃。
国民的休日の始まりを明日に控えた午後、切嗣さん家の衛宮士郎君は昼下がりの坂道を駆け下っていました。
今日は土曜日なので学校はお昼まで、明日からはゴールデンウィーク。
そして、
「じいっ…さん…大丈夫っ…かなっ!」
駆けてゆく合間にも、心配事は家に一人残っている”じいさん”のことです。
士郎君のお養父さんである衛宮切嗣さんは、どうも家事一般に疎く浮世離れしたところがあるので、士郎君は心配なのです。
『今年はゴールデンウィーク、ずっとお家にいるからね、新都の水族館に行こう』
切嗣さんがそう言ってくれたのもとても嬉しくって、士郎君は結局家まで走り通しでした。
オレンジ頭の少年が駆けてゆく様子を、近所のおばさん達が微笑ましそうに見守っていましたが、それにも気がつきません。
やがて家の門が見えてきました、士郎君のお家は大きな武家屋敷です。
切嗣さんが張り切って買ってくれましたが、二人で住むには大きすぎるよなぁと士郎君は思っています。
普段、切嗣さんは外国にいることが多いから、余計にです。
その大きな家の、大きな門構えの前に、士郎君は箱を見つけました。
段ボール箱です。
「あれ…?」
士郎君は思わず足を止めます。
小さな段ボールならたまにあるのです、犬や猫を育てられない人が、士郎君のお家なら親切に里子を捜してくれると聞くらしく、置いてゆくことが。
少し悲しいことですが、士郎君は余所に捨てられて死んでしまうより、家に置いて貰ったほうがいいやと思っています。
けれど今日は少し様子が違いました。
「おっきい…」
その段ボールは士郎君の身長と同じくらいの大きさで、恐らく洗濯機だとかの大きな品物が入っていたもののようです。
そんな大きなものを買った憶えはありません。
時折、切嗣さんが旅先で買った怪しげなお土産が届くことはありますが、それなら家にいる切嗣さんが受け取っているでしょう。
それに、なんといいますか、段ボール全体から何か尋常ではない威圧感がします。
「何が入ってるんだろう…」
呟いて、思わず靴の先で少しつつくと…
がさっ!!がさがさがさっ!!
「!!」
動きました、生き物が入ってるようです。
犬?猫?何でこんなに大きな…
士郎君はびっくりしましたが、生き物なら早く出してやらねばなりません。
段ボールの蓋に手を掛けたとき、士郎君はその但し書きに初めて気がつきました。
『名前はアーチャーです、可愛がって下さい』
アーチャーだなんて、洒落た名前だな、猫かな、
と、士郎君は段ボールを開きました。


…それが士郎君とそれの出会いでした。
それは体中から殺気とネガティブなオーラを吹き出しつつ、段ボールの底で体育座りをしていました。
…ヒトの形をしていました。


髪が白くて肌が黒かったし、変わったデザインの服を着ていたので外国の人だと士郎君は思いました。
そしてこの人捨てられちゃったんだ!と考えました。
結論として、優しくしなくちゃ!と思いました。
「あ、あの、大丈夫です…か?」
士郎君がちっちゃな手を伸ばして声を掛けると、それはゆっくり顔を上げました。
(あ、綺麗だな…)
暗い段ボールの中、その”アーチャー”の瞳だけが五月の光に光っています。
夕暮れ色の紫でした。
「大丈夫ですか、身体、痛くありませんか」
アーチャーはしげしげと士郎を眺め、やおらゆっくりと立ち上がりました。
「おっきい…」
段ボールも大きかったのですが、アーチャーはもっと大きくて、士郎君は首を思いきり曲げなければなりませんでした。
「あ、あの…」
「貴様が」
じろりと、士郎君と視線を合わせると。
「貴様が私のマスターか…」


士郎君はまたびっくりしました、
(小学生相手に”貴様”って…なんて大人げないんだろう!!)
…切嗣さんにお家を一人で任されている士郎君は、ちょっぴりシビアなところがありました。
しかし、信じていた家族に裏切られてこんな所に置き去りにされたのだから、荒れていて当然だとも思います。
それに、今士郎君がアーチャーを拾うと決めたのだから一応”マスター”で良いのかも知れません。
確か英語だから、やっぱりアーチャーは外国の人なのでしょう。
「ああ、しばらくは俺がマスターだから、よろしくな、アーチャー」
…アーチャーの里親は見つかるかなぁ。
でもちょっと格好良いから、「格好いい男の子とデートしてみたいわぁ」って言ってる向かいのおばさんならもらってくれるかなぁ、なんて。


色んな事を考えながら、士郎君のゴールデンウィークは始まりました。


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「駄目です、どこか遠くに捨ててきなさい」
「で、でもアーチャーは行くところがないし」
「駄目です、アーチャーだけは駄目です、士郎が捨てないのなら僕が捨てます」
士郎君の琥珀色の瞳が涙で潤んで、一回り大きく見えます。
切嗣さんはそれを直視してうっと唸りましたが、深呼吸をしてやり過ごしました。
「ちゃんと俺世話するから…ご飯も散歩も連れて行くし、フンも…」
「そんなことしなくて良いから!!」
純粋ながら完全にずれている士郎君の常識に、切嗣さんは内心舌打ちをします。
おそらく、ずれているのではなくずらされているのです。
どうやらとても大きなものが関わっているらしいと、切嗣さんは警戒していました。
しかしそれならば、ここでこうして反対するのも全くの無駄かも知れませんが、それでもやれるだけはやっておくに越したことはありません。
「アーチャーはこんなに大きいから、ちゃんと一人で生きて行けます」
そう言って士郎君を窺うと、士郎君はアーチャーのマントの裾をぎゅっと掴み、
「アーチャーは一人で大丈夫なのか?」
とアーチャーに尋ねました。
するとアーチャーは、
「私はサーヴァントで貴様がマスターだ、私は貴様の側にいなければならない」
「サーヴァントって何?」
「飼い犬だと思えばいい」
そう言ってプイとそっぽを向きました。
(このクソ英霊〜!一体どういうグレ方したんだぁ〜!ウチの士郎がこんなになるなんて認めないぞっっ!!)
内心歯ぎしりをしつつ、上辺は表情を取り繕い、
「士郎、サーヴァントはとっても飼うのが難しいんだ、こんな町中のお家じゃ無理なんだよ」
士郎君の瞳がまた一回り大きくなり、こぼれ落ちそうになりました。
しかし士郎君は男の子です、シャツの袖でぐっと拭って堪えました。
そしてきっぱりと言いました。
「わかった、俺、アーチャーと一緒に家を出るよ」
その言葉に、切嗣さんは頭を抱え、アーチャーは片眉を跳ね上げて一瞬笑ったように見えましたがすぐに消えました。
「士郎、なんだってそんなことを…」
「アーチャーのマスター?は俺なんだ、だからアーチャーを守らなきゃ」
なんという感心な少年でしょうか、さすが将来の夢「正義の味方」なだけはあります。
「アーチャー待っててくれ、俺、準備してくるよ」
「待ちたまえマスター、私も手伝おう」
廊下に出ようとする士郎君に、とうとう切嗣さんは諦めることにしました。
仕方がありません、余生は士郎のために生きると決めているし、いざとなったら差し違えてやる…!!
という決意を秘めた視線を一瞬アーチャーに送ると、次の瞬間にはもう”じいさん”に戻っていました。
「…わかったよ、士郎。でも里親を捜す必要はないからね、アーチャーはゴールデンウィークの間しかいないから」
「え、なんで?」
「アーチャーは捨てられたんじゃなくて、家に預けられただけだよ、しばらくしたら帰るから」
「そうなんだ!」
士郎君はアーチャーに飛びつくと。
「よかったな!」
と笑いました。
実家の方がなお酷い…ということは世の中ではよくあるのですが、そんなこと士郎君は知らないし知らなくっていいのです。
士郎君を向いたアーチャーの視線が一瞬揺れたように見えましたが、やはりそれもすぐ消えてしまいました。
「アーチャーの寝るとこ、こっち!」
アーチャーを引っ張って、士郎は出て行きます。
切嗣さんは暗雲立ちこめて来たゴールデンウィークに溜息をつきつつ、長く続くカレンダーの赤い日付を恨めしそうに見上げていました。


「こっちが俺の部屋だから、アーチャーはお隣。布団は今干すから、後土蔵には入っちゃ駄目だぞ…」
嬉々として世話を焼く士郎君の部屋を、アーチャーは少し見渡して小さく頭を振りました。
「先ほど家出をすると言っていたが…あてはあったのか?」
「ないよ」
士郎君はあっさりそう言いました。
「ただ、じいさん俺に甘いから、ああ言うと大抵は大丈夫なんだ」
色々と苦労している士郎君は、ちょっぴりちゃっかり屋さんでした。
「それに、本当に出て行っても、アーチャーがいるしさ」
真顔で言う辺り、成長の後のジゴロがかいま見えています。
「家、ちょっと訳があって、犬とか猫とか飼えなかったんだ、アーチャーがいるのは嬉しい」
にっこり笑って。
「今夜御馳走だからな!」
サーヴァントは食べなくても平気だと、
言おうとしてもどうしてか声が出なくて、アーチャーは視線を落としました。


ぽっかり月が浮かんでいます。
五月の闇はその光に追われて庭の隅にわだかまっていましたが、アーチャーが縁側に姿を現すと、こそこそとどこかに消えてゆきました。
「…小物が入り込んでいるぞ」
「いいんだ、ああいうのは通しとかないと、逆に溜まっちゃうから」
のんびり答え、柱にもたれて眠ってしまった士郎君にタオルケットを掛けています。
士郎君の御馳走は鶏の唐揚げでした、アーチャーもほんの少しだけ、ご相伴しました。
「いつまでいるんだい」
「ほとんど予想通りだよ、保って三日だ」
「そうか」
ううん…と鼻を鳴らし、起き上がろうとするのを寝かしつけて、切嗣さんは縁側のアーチャに並びました。
「なんだって来たんだい」
「さぁ…わからん」
嘘だろうと切嗣さんが睨むと、アーチャーは溜息をつきました。
「大方…擦り切れすぎて使い潰すまで保ちそうにないとでも思ったのだろう、休暇だよ」
「酷い有様だな」
疲れたように、切嗣さんは肩を落としました。
「どっちにしても、僕はこの子にとって呪いか」
「そいつが私になるかはまだわからん」
寝顔を横目で見ながら、
「私には私の望みがあるが、こんな子供を殺して果たされるものかどうか」
「君の選択肢は二つで、誰も殺さないか僕を殺すかの二つだけさ」
規則正しく上下する、小さな胸の鼓動を確かめるように手をのせて、
「僕が守るからね」
「人の身で私を殺せるものか…」
「君も守るからね、大分焦げたしひねくれたけれど、やっぱり…だからね」
「戯言を…」
自分を見上げる切嗣さんの目から、逃れるようにアーチャーは夜に溶けて消えました。
士郎君が寝言に、小さくアーチャーの名前を呼びます。
焼けるなぁと、切嗣さんは笑っています。


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翌日はまさに五月晴れで、朝からのニュースはもう数十回”行楽日和”の単語を繰り返していました。
「水族館なんだ!!」
「…」
「白い鯨がいるんだ!」
立ち上がって熱弁を振るう士郎に、アーチャーはうっそりとした視線を向けました。
「ご飯食べられるだろ」と、昨晩の前例を持ち出されて、朝食にお茶漬けを付き合わされた後です。
「名前はディックって言うんだ!」
「左足持って行かれそうな名前だねぇ」
あっはっはと笑いながら、新聞を折りたたみ、
「混むだろうから、早く支度しなさい。アーチャーは来ないよね、当然だよね、親子水入らずに割って入ったりしないよね」
「残念ながらそうもいかんな、こいつは私のマスターなのでね、不本意でも側を離れられん」
「うわぁ何て恩着せがましい言いぐさだろうね!士郎、僕ちょっとアーチャーと表でお話があるから支度をするんだよ」
「はーい」
良い子の返事をして、士郎君は先に洗い物を済まそうと台所に消えました。
「ええい、ひねくれるのもいい加減にしろ!鯨のエサにしてやる!」
「そっちこそいい加減子離れしろ!端から見ていて寒いぞ!」
なんだか物凄い音がしますが…どちらかの憎まれ口が聞こえなくなったら様子を見に行くことにしましょう。
「楽しみだな…」
食器洗いも今日は楽しい朝です。


そして出がけに、
「ぴったりだね…」
切嗣さんの洋服を借りたアーチャーを、切嗣さんは眩しそうに見つめました。
むっつりと黙ったままネクタイを結ぶアーチャーが、少し手間取っているのを見て切嗣さんが伸ばした手を、アーチャーは押し戻しました。
俯いてネクタイを結ぶアーチャーが、痛いのを堪えるような顔をしているのを、士郎君は見てしまいました。


そして水族館です。
ゴールデンウィーク初日はどこも混み合うものですが、朝一番の水族館はまだ人もまばら。
「やっぱり一番でよかったねぇ」
と言いあいながら、鯨やマンボウなど人気の生き物コーナーを回ります。
興味がないかと思っていたアーチャーも、「世界の毒魚」コーナーを熱心に覗いています。
「本州沿岸で採集される…か、ふむ」
メモまで取っています。
何だろうなぁと首を傾げながら、士郎君はその名の通り動かないネムリザメとにらめっこを続けました。
アシカやイルカのショーは、もう少し時間が経ってからなのです。
青い光に包まれてそれぞれの時間を過ごすうち、ふっと切嗣さんの姿が見えないことに士郎君は気付きました。
「じいさん…?」
辺りを見回して、いつでも着ている煤けたコートの後ろ姿を探していると、ちょいちょいと袖を引かれました。
振り返ると、女の子が立っていました。
真っ黒な黒髪と、うっすら緑色の縁取りの瞳をした女の子です。士郎君よりちょっと年上でしょうか。
とっても綺麗な子です。
「な、なんですか」
「あの人、貴方の保護者?」
そう言って指さした先には、誰か…見たことのない人です、誰かと向き合う切嗣さんの姿がありました。
随分大柄な人のようです、胸元で何かのペンダントが光っているようですが、よくわかりません。
「知り合い…?」
「わからないの、私の引率があっちの大きいほうなんだけど、やけに殺気立っちゃって」
なんなのでしょうか、ともかくじいさんを呼ぼうと士郎君は睨み合う二人に近づきかけて、
「やめておけ」
気配もなく背後にいたアーチャーに捕まりました。
抱えられて、ちょっと暴れてみましたが無駄です。
「なんでだよっ!」
「説明の義務は感じない…君も来たまえ」
突然現れたアーチャーにびっくりしながらも、女の子はついてきてくれました。


時間を潰すためにでしょうか、イルカのショーに三人で並ぶことになりました。
まさか知らない女の子と一緒に見ることになるとは思わなかったな、と士郎君はこっそり隣を窺います。
やはりとても可愛い子です。
その視線を辿って、ふっと士郎君は、その子がステージを見ていないのに気がつきました。
(…?)
視線の先には女の子がいました、ずっと前の席で、ショーを見ています。
ピンクのリボンの女の子は、お友達でしょうか。
(声、掛ければいいのに)
でも、何か堪えるように口をきゅっと結んで、結局彼女が女の子に話しかけることはありませんでした。


ショーが終わって外に出ると、切嗣さんがごめんごめんと謝りながら駆け寄ってきました。
「ごめんね、昔の知り合いに会ったものだから」
そう言って女の子にも頭を下げました。
「いいの、見たいものは見たから」
「そう言ってもらえると助かるよ、君のお連れさんは先に外にいるって」
「そう、ありがとうございます」
ちょこんと優雅にお辞儀をすると、女の子はすたすた歩いてゆきます。
「あ…じいさん、俺送ってくる!」
士郎君はその後を追いかけます。
「…時と場合を自覚しろ、たわけ」
「いや〜、僕、彼とは徹底的に馬が合わないんだよね」
でも、ちゃんと後始末してきたよ?と笑う切嗣さんのコートの、何故か焦げていた端をアーチャーはぎゅっと握りました。
「詰めが甘い」
ぱっと手を放すと、焦げは消えていました。


スタスタと歩いてゆく後ろ姿に追いついて、何とか並びます。
彼女の足取りはとてもしっかりしたものでしたが、やはりまだ小さな女の子なのです。
背の高い大人の間を縫って歩いてゆく姿は、とても頼りなく見えました。
「いいわよ、一人で行けるもの」
「駄目だ、女の子こういうところで一人にしちゃいけないってじいさんが言ってたし」
そう言って手を繋ぐと、目を丸くしました。
「これも貴方の保護者の仕込みなの?」
「イヤなら放すよ」
「…別に、そのままでいいわ」
ちょっと目を伏せました。
手を繋いで歩いてゆき、やがて二人は、出口のゲートの向こうに大柄な影が見えるところまで来ました。
「ここまででいいわ」
「えっと、あの人、お父さん?」
「違うわよ…兄弟子みたいなもの」
へぇ、ピアノとか習ってるのか?と尋ねると、そんなものねとはぐらかされました。
「なにか、ね、最近少し雰囲気ちがうの」
「そうなのか」
「…別人みたい」
繋いでいた手が、ぎゅっと握られました。
心細そうな…
「よくわからないけど…好きなら信じてみないとさ」
士郎の”好き”の言葉に、彼女はびっくりしたようでしたが、
「そうね…」
そう言って、そっと繋いだ手を放しました。
「ありがとう、またね」
「うん、また」
女の子の姿が見えなくなってから、名前を聞き忘れたことに気がつきました。
でも「またね」でお別れしたから、またきっといつか、会えるでしょう…
「しろーう!おみやげ屋さんに寄ろうよ!!」
切嗣さんが呼んでいます、今日は本当に楽しい一日です。


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そしてその翌日、やはりというか、切嗣さんは朝から起きて来ませんでした。
「じいさんもう何時だと思ってるんだっ!」
士郎君が一生懸命布団を剥がそうとしても、子供の士郎君相手に本気で布団を取り返しにかかるので、士郎君は呆れてしまいました。
「昨日は起きたじゃんか…」
「…昨日、僕、頑張った、からさー…ZZZZ」
「ええい!”笑って良いとも”がもう始まるだろうがぁぁ!!」
士郎君は、三度布団に自ら簀巻きとなった切嗣さんに挑みましたが、すぐにころりと畳に転がされてしまいました。
「起きろー!!」
「…士郎も寝れば良いんだと思う」
籠もった声と同時に布団から二本の腕が伸びてきます。
「放せ!俺はじいさんみたいな堕落した大人にはならないんだからな!!」
「堕落なんて難しい言葉よく知ってるねー偉いねー」
「助けてー!」
普段はどんなに助けを求めても、誰も来ずに布団に引きずり込まれますが、今日は違います。
「児童淫行は犯罪だたわけ」
涙目の士郎君をひょいと抱え上げると、背中をぽんぽん叩いてよしよしをしました。
「アーチャー、それは聞き捨てならないぞ。僕は士郎の保護者として法律の範囲内でのスキンシップをだね…」
「寝言は寝て言え」
アーチャーは布団に一発、足の裏を埋めると、士郎を抱えて台所に去って行きました。
布団はぴくりとも動きません。


「アーチャー、じいさん大丈夫?潰れなかった?」
「潰れていない」
「そ、そっか」
正確には”潰れてはいない”と言うべきでしょうが、切嗣さんなので大丈夫でしょう。
「片づけは終わったのか」
「うん…あ、アーチャー、ちょっと待ってろよ」
そう言うと士郎君は台所に走って行き。やがて小さな箱を持って戻ってきました。
「これ、アーチャーのだから、名前書いとけよ」
箱をアーチャーに押しつけると、洗濯物の様子を見に庭に降りていってしまいました。
「……」
そっと箱を開くと、イルカの染め付けの白い湯飲みが入っていました。
「良い子だよね〜ウチの士郎は、本当、三国一の良い子だよね〜」
そこにふらふらと切嗣さんがやってきます。
「可愛い士郎を守るためなら、何だってしちゃうぞ〜、今日はちょっと身体が痛いけどね〜、あの糞神父〜」
妙な節を付けて言いたいことを言うと、士郎君にちょっかいを出しに、庭に降りて行きます。
「…愚か者」
小さなつぶやきは、誰にも拾われずに消えました。


今夜もお月様は綺麗でした。
切嗣さんもアーチャーも、どちらもいるのが嬉しくて、士郎君は夜更かしに精を出しています。
しかし士郎君は基本的によい子なので、やはり難しいニュースの時間になるともうお眠です。
「参ったな」
縁側にお茶の間の明かりがこぼれています。
障子一枚なのに不思議とテレビの音が遠く聞こえる中、アーチャーの膝の上で士郎君は寝息を立てています。
「おやおや、ウチの可愛い息子に何してるのかな?」
「マスターの命令に従っているだけだ」
お風呂から戻ってきた切嗣さんに不機嫌そうに応じますが、小さな声でした。
「いいけどね、僕が来たからには代わってもらうよ」
切嗣さんが向かいに座って膝を叩くと、アーチャーは士郎君をそっと渡します。
寝息を確かめるように口元に手のひらをかざして、それからそっと身体を撫でました。
「…君の身体は綺麗かい?」
溜息のような問いかけの意味を、アーチャーは少し考えました。
「私の傷は、皆、私の付けた傷だ」
「そっか、なら間に合うんだね」
するりと手のひらが襟を割り、お腹の辺りを撫でました。
士郎君は少しくすぐったそうにしています。
「まだ残っているのか?」
「火傷の後はなかなか取れないよ、少しずつこうしてるけれどね」
すやすやと休む寝顔を見つめながら。
「けど、間に合うのなら頑張らなくちゃね、間に合わないかと思っていたよ」
ほんのりと魔力を帯びた手のひらが、手を足を撫でます。
「プールに入れないのはイヤだもんね、士郎。間に合うみたいだから、全部消してからいくからね」
眠っている士郎君に愛おしそうに話しかける姿を、アーチャーは見つめています。
お月様を背負っているから、どんな顔をして見ているのかはわかりませんでした。
やがてアーチャーはフイときびすを返して、士郎君に決められた自分の寝床に向かおうとしました。
その背中に、切嗣さんが思いついたように声を掛けます。
「なぁ、アーチャー、士郎のこと、まだ嫌いかい」
「…そんな子供に用はない」
そう言って、ふっと姿を消してしまいました。
「やっぱりしろうは、いつだって良い子だね」
笑み崩れながら士郎君に額を合わせた切嗣さんの、髪を不機嫌そうに誰かが引っ張りました。


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翌朝、切嗣さんは朝からいませんでした。
ちゃぶ台に一枚、チラシの裏の置き手紙。
「仕事だって、いっつも急なんだもんな」
ぷちぷちと文句を言うものの、もう慣れっこになってしまっている士郎君は、アーチャーと二人分の朝食と夕食の支度を実に手際よく済ませてしまいました。
お昼からは、アーチャーに手伝って貰って、雨樋をなおしたり、手の届かない部分の掃除をします。
切嗣さんの居ない間にこっそり土蔵の中に連れて行って、生理も手伝って貰いました。
土蔵に転がる、士郎君の”失敗作”を、アーチャーは興味深そうに手に取っています。


「今日の夜には帰れるって、何の仕事だろ」
午後も遅くなり、二人で洗濯物を畳みながら、士郎君はぽつぽつアーチャーに話しかけます。
「じいさん仕事の話あんまりしないんだよな…」
「聞いて何になるわけでもないだろう」
「宿題があるんだよ、将来の夢書いてこいって」
アーチャーはふと、シャツを畳む手を止めました。
「…なぜ、その仕事がお前の将来と関係あるんだ」
「だって俺正義の味方になるし!」
「それは職業ではないだろう」
それにハテナ?と可愛らしく首を傾げ。
「でも、じいさん正義の味方だぞ?」
詳しく説明するには骨を折りそうだと思ったアーチャーは、話題を変えました。
「何か他にやりたいことはないのか?将来の事でなくていい」
「うーん…そうだな〜、正義の味方になるには身体鍛えないと駄目だろ」
「まあそうだろうな」
「この間テレビで見た弓道は格好良かった!」
その言葉に、微かにアーチャーの眉が寄ります。
「剣道はどうなんだ」
「やだよ、大河に勝てないし」
「……」
士郎君を見つめながら、アーチャーはなにやら考えあぐねていました。
黙り込んだアーチャーに、士郎君はなあなあと身を乗り出し。
「な、アーチャーって、もしかして剣道してる?」
「…心得はあるが、教えんぞ」
「えー、なんでだよ」
不満そうな声を上げる士郎に、アーチャーは何事か威儀を正しました。
「士郎」
「へ…」
「正義の味方になるのはやめたほうがいい、恐らくお前が想像しているものとそれは違う」
士郎君は小学生ですが、アーチャーの声が今までと違うことがちゃんとわかりました。
「人を助ける方法なら、他にいくらでもある」
アーチャーの言葉はもっともです、いわゆる、大人の意見です。
でも、時々子供はその上を行きます。
「…けど、他にいくらでもあるその方法じゃ、助けられない人もいるだろ」
アーチャーはその言葉にびっくりしました。
本当に当たり前のことには、大人は誰でもびっくりします。
それは子供にしか見えないのです。
「じいさんもアーチャーも、助けられない人がいるのがイヤだったんだろ?それは俺も同じなのに、なんで俺じゃだめなんだよ」
膝の上の小さな拳が、タオルケットに皺を作っています。
アーチャーは驚きながらも何とか、言葉を口にしました。
我ながら、とってつけたようだと思いながら、
「…それはお前を幸せにしない」
「俺は正義の味方になりたいって言ったけど、幸せになりたいなんて言ってない!」
物凄い言葉でした。
少なくとも小学生が本気で言うセリフとは思えません。
呆然としているアーチャーに洗濯物を押しつけて、士郎君は立ち上がりました。
「スーパーに買い物に行く…」


士郎君が立ち去った後、アーチャーはじっと、考え込んだ様子でいました。
しかしやがて、立ち上がって士郎君の後を追いました。
まだ言葉は見つかっていません、けれど、アーチャーは士郎君のサーヴァントなのだから、ずっと側にいなければ。


そうして二人は夕暮れの道を並んで歩いています。
スーパーで品物を選ぶときも、レジに並んだときもずっと二人だったのに、一言もしゃべりませんでした。
好きでそうしているわけではありませんが、買い物袋を半分持とうとするアーチャーの手を、士郎君はずっと拒んでいます。
ビニール袋が小さな手を赤くしていることが、アーチャーには気になるようでした。
やがて夕闇が深まって、お互い顔が見えなくなる頃に、やっとアーチャーは士郎君の手を捕まえました。
「士郎、半分持たせてくれ」
士郎君は、何にも言わずに取っ手を渡してくれました。
アーチャーが一歩歩く間に、士郎君は三歩進まなければなりません。
アーチャーは歩調を緩めようとしますが、それがイヤで、意地になって追いつこうと一生懸命進んで進んで。
「士郎」
「……」
「士郎、少し休んで欲しい」
「平気だよっ!」
「…私が辛いんだ、頼むから休んで欲しい」
そう言われて、士郎君はやっと足を止めました。
坂の下の、街灯の明かりの輪の中に二人。
士郎君はアーチャーを見上げましたが、アーチャーが疲れている様子はありません。
「俺は平気だよ」
「私が辛いんだ」
「嘘つき、平気な顔してるじゃないか」
「辛いのは足じゃないんだ」
そう言われて、今度は士郎君が黙って俯いてしまいました。
「先ほどは済まなかった、知ったような口をきいてしまった」
アーチャーは、士郎君に謝ってくれました。
でも士郎君は、アーチャーがそうして謝ったり、こちらを気遣うたびに、何だか胸が苦しくなります。
「なんでだろ…」
ぽつりと、士郎君は呟きました。
小さな声ですが、ここには二人しかいないから、アーチャーにはその声が震えているのがよくわかりました。
「俺が正義の味方になりたいって言うと、じいさんも少し怒って…それから謝るんだ、いつも」
「士郎…」
「俺が小さくて弱いからかな、大きくなればいいのかな」
アーチャーはいい大人でしたが、こういうときにどうしたらいいかわからない駄目な大人でした。
ふと気がつくと、足元のアスファルトに黒い染みが一つ二つ…。
ますますアーチャーはどうして良いかわからなくなりました。
(ともかく、士郎と話をしよう。それにはまず、目線を合わせることだ、そういう本を読んだことがある!)
と、全く他力本願な答えを出してアーチャーがしゃがんだ瞬間、
ひょふっ…
空気が鳴り、何かがさっきまでアーチャーの頭があった辺りをかすめて行きました。
「何?」
その音に士郎君が顔を上げると、アーチャーが見たことのない顔をして、彼方を睨んでいます。
「アーチャー…?」
「マスター、絶対に離れるな。絶対にだ」
聞いたことの無い声でした。
強い力で引き寄せられ、思わずアーチャーの腰の辺りにすがります。


「なんだ、わざわざ出てきたというのに、つまらん奴だな」


ざわりと蠢いて、闇が道を開けたのがわかりました。
夜闇の中でも照り輝くような金の髪です。その光に追われて、月と星が姿を消しました。


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金色の髪と赤い瞳の綺麗な男の人でした。
けれど…”違い”ました。
じりじりと、その男が近づく毎にアーチャーは退いて行き、士郎君も押されて行きます。
見た目はのんびりと足を運ぶ目の前の男が、とても恐ろしいモノだとは、士郎君もわかっていました。
アーチャーはあの切嗣さんとケンカができるくらい強いのです。
それが今こうして退いているのだから、きっとあの”男の姿をしたもの”は強いのです。
「そう怯えるな、一人残って退屈でな。面白いモノがいると聞いて、見に来ただけだ」
「ふん、あの似非神父の差し金か、下らんことをするな」
アーチャーの言葉に、男は少し目を見開きました。
「あれを知っているのか」
「向こうは知らないだろうが、私は腑のことまで存じ上げていると伝えてくれ」
「多少は興味深いところがあるな」
「君ほどではない」
アーチャーは、なんとか男に隙を作ろうと必死でした。
この男は、サーヴァントを見たという神父の話を聞いてやってきたに過ぎません。
アーチャーにしか興味がなく、士郎君のことは視界にもありません。
まさかこの子供が、自分を殺すと彼はまだ知りません。
だから逃がせる、絶対に逃がさなければならないと、アーチャーは距離をとり続けます。
しかし、
「面白いものを連れているな、それがお前のマスターか?」
アーチャーの背後から覗く赤銅色の髪に、彼は気がついてしまいました。
「だったらなんだというのだね」
「聖杯無しにサーヴァントを呼び出した子供に、興味を持つなという方がどうかしているだろう」
アーチャーは歯がみしました、自分が士郎君について来さえしなければ、彼は家に一人の自分だけを襲っていたはずです。
どうなろうと…士郎君だけは帰さなければなりません。自分がどうなろうと。
(士郎、私が飛び出したら、お前は家まで走れ。切嗣が戻るまで絶対に家から出るな)
「…!」
急に頭の中に響いた声に、士郎君は驚きました。
でも確かに今のはアーチャーの声です。
見上げると、後ろ手に回したアーチャーの手のひらに小さな光の瞬きが見えました。
「あ…」
士郎君はそれを…知っていました。
(剣が出るんだ、あそこから)
それを知っています。見たことも聞いたこともないけれど、知っています。
そしてアーチャーは、その剣を握って飛び出していってしまうでしょう。士郎君が無事に逃げ切れることを祈りながら。


そして帰ってきません。
あの火の海の中に消えた人たちが、誰一人戻ってこなかったように。


そして男は、久方ぶりにとても面白いものをみました。
小さな子供がサーヴァントの前に走り出ると、大きく手を広げたのです。
「何をしているんだ士郎!!」
慌ててサーヴァントが捕まえようとしますが、子供は暴れていました。
「馬鹿か!死ぬだけだぞ!」
「わかってる!でも俺が先に死んだんじゃ順番が逆だろ!」
「何を言ってるんだ!」
「サーヴァントはマスターの飼い犬だって言ったのお前だろ!俺が守らないと駄目じゃんか!」
久しぶりでした、こんなに面白いモノを見たのは。


近所迷惑な高笑いが響きました。
「雑種にしては面白いガキだな、気に入った」
ひとしきり笑い終わると、少し上機嫌にまた一歩踏みだそうとしたときでした。
「お気に召して幸いだな、それに免じて今夜はもう帰ってもらえないだろうか」
切嗣さんでした。
いつの間にそこにいたのか、柳洞寺に向かう坂道から、ふらふらと歩いてきます。
「…貴様のガキか」
「大事な一人息子でね、遊ばれるのは気に入らないんだ」
切嗣さんはいつものようにほんのり笑っていましたが、士郎君は、あのコートはそんなに闇に馴染む色だったろうかと、目を凝らしていました。
「なぜ貴様の意に添う必要がある」
「君、受肉しちゃってるじゃない。ここで揉めると、嗅ぎつけて小物がたかるよ」
「そんなもの…」
塵芥にもならないと続けようとしましたが。
「あの子の中には彼女の鞘が安置してある、ほとんど融合してるから、下手につつくと消えちゃうかもね」
「…なんだと?」
男の赤い瞳が、初めてまともに士郎君を捉えました。
「ひ…!」
視線の力。
ただそれだけが恐ろしいなんて、士郎君には初めての経験でした。
「待っているんだから、こんなところで失いたくはないだろう」
淡々とした言葉に面白くなさそうな顔をしましたが、やがてきびすを返し、闇に溶けるその瞬間に、
「おい、子供…またな」
面白くもない言霊残してくれちゃって、と切嗣さんが渋い顔をして。
やがて月がそっと、顔を出しました。


その夜は穏やかな月夜でした。
切嗣さんはいつものように、士郎君にはお土産だけ渡してお仕事の話はしません。
三人で晩ご飯を作って、三人で食べて。
士郎君はアーチャーをお風呂に誘おうとしましたが、アーチャーは声を掛けられる前に姿を消して逃げてしまいました。
そうしてお布団の中で、
士郎君が障子の明かりを見つめていると、大きな影が映りました。
「アーチャー?」
名前を当てると、アーチャーはそっと入ってきました。
「まだ起きていたんだな」
「うん」
起き上がろうとする士郎君を手で制して、枕元に胡座をかきました。
そのままじっと見下ろしてくるアーチャーに、士郎君は小さな声で謝りました。
「あのさ、ごめん」
「謝られる理由がわからん」
「なんか、俺今日は変だったと思う」
普段はあまり怒らない士郎君ですから、アーチャーにあんなに腹を立てた事が気になっているのです。
「俺、今はアーチャーのマスターだから、アーチャーを守らなきゃってずっと思ってたんだ」
「…そうか」
「だから、アーチャーに無理だって言われて、それで怒ったんだと思う」
ごめんなさい…と顔を布団で隠して、小さな声で言いました。
「士郎」
アーチャーは、布団ごと士郎君をぎゅっとすると、
「お前が正義の味方になりたいのはわかった」
口を近づけて、ただどうかこれだけは、と祈りを込めて伝えました。
「お前が幸せにならないと、幸せになれない奴もいる、それだけは忘れるな、絶対だ」
布団の中の頭が小さく頷いたのを見て、アーチャーはそっと出て行きました。


手入れの行き届いた廊下は月明かりに光っています。
それを何とも無しに眺めていると、風呂を使ったらしい切嗣さんが歩いてきました。
「やあ、災難だったね」
「…私がふらふらと居着いてたのが間違いだ」
「君がこの家以外のどこに行くっていうんだい」
切嗣さんは、ふっと息をついて、
「あれが来たのも、そもそもは僕の因業さ…過去はどこまでもついて回る」
過去はついて回る…、全くその通りだとアーチャーは思いました。
「ま、あと少しなんだろう?楽しんで行きなさい」
「そうだな、明日中と言ったところだ」
「随分早いなぁ」
「マスターはまだ未熟だ、とても保たん」
「そうか」
切嗣さんは、アーチャーの隣に並んで、アーチャーの見つめている庭を同じように見つめようとしました。
月で白く染まった庭です、けれど僕の見ているモノとアーチャーの見ているモノはもう違ってしまっているのだろうと切嗣さんは思いました。
「いく日が来たら、次は君の所へ行きたいな…」
ぽつりと呟いた切嗣さんを、アーチャーは睨みつけ、
「来るな」
そう言って、庭に降りて姿を消しました。
残った切嗣さんは、銀色に光る庭を見つめていました。
無意識に肩に手を回したのが、痛みを堪える仕草によく似ていました。


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翌朝、士郎君は朝早く起き出しました。
当然、切嗣さんは起きていません。
アーチャーはどこからか姿を現し、台所の士郎君に並びます。
卵焼きを作ります、唐揚げを揚げます、ウインナーはタコさんにします。
五目ご飯を酢飯で作ります、それを煮染めた油揚げで包んで、海苔おにぎりを作るときちょっとだけ具で揉めます。
全部重箱に詰め終えて、アーチャーは初めて気がつきました。
「ピクニックにでも行くのか?」
「アーチャー寝ぼけすぎだ!」
そう言って、士郎君はせっせと冷やした麦茶を水筒に詰めています。
今日も晴れです、太陽が緑を透かしてお茶の間に満ちています。


「どこいくんだい?」
「海浜公園!」
「いいね、今日は風が気持ちいいよ」
切嗣さんがアーチャーに笑いかけると、アーチャーも頷きました。
その様子を見上げた士郎君は、
「…仲良くなった?」
「うん、仲良くなったよ、昨日の夜にお話ししたからね」
士郎君はパァッと顔を輝かせると。
「そっか!俺も昨日、アーチャーに夜ぎゅうっとして貰って嬉しかった!」
そう言って、リュックを取りにお部屋に駆けてゆきました。
「ンー…ちょっと理解に苦しむセリフが出たぞ?嘘だと思いたいけど僕の可愛い士郎が嘘吐くはず無いしね、言い訳は三秒以内に済ませろ○▼■☆♪野郎」
○▼■☆♪は、切嗣さんが豊富な海外経験やお仕事歴で身につけたある単語ですが、ちょっと教育上宜しくないので変換してあります。
アーチャーは涼しい顔で、
「それは誤解だ、私はマスターと法律の範囲内でのスキンシップをだな…」
「表に出ろ!!」
五月の抜けるような青空に、しばし雑音が響きました。


橋を渡って新都に出るのは久しぶりでした。
潮風吹き抜ける海浜公園は、いつもより連れだった家族連れが多いようです。
士郎君にキャッチボールを強請った切嗣さんが三球投げて倒れたとか、些細な事件はありましたがおおむね平和に時間は流れてゆきます。
深山町と新都を繋ぐ大橋のたもとにある公園ですから、海がそのまま覗けます。
士郎君はアーチャーをお目付役に、海を覗きに行きました。
「士郎、あちらに船が停留しているぞ」
アーチャーは、切嗣さんがどこか暗い表情を橋の下の海面に投げているのを見て、士郎君を近くの小さなマリーナの方に呼びました。
「見るー!」
走ってくる士郎君を捕まえ、しっかりと手を繋いでマリーナへ歩きます。
士郎君は振り返って、遠くの芝生に転がっている切嗣さんに叫びます。
「じいさん行かないのか〜?」
「ごめんね、もう少し休ませて〜!」
大きく手を振っている姿が見えました。
大橋のたもとを通ると、橋の基礎にバスケットを吊して、バスケットボールをしている少年達がいました。
「いいのか?」
「うん、今日はアーチャーと一緒にいる」
そう言いながらも、横目でゲームを眺めていました。
士郎君と同じくらいの男の子達の中に、金色の髪の少年が一人交じっています。
(あんな金色だったなぁ…)
「どうした?」
「ううん」


マリーナに並ぶ船は小型から中型のモノがほとんどです。
みんな、海遊びの好きな人たちの物なので、今日は半分ほどが出払っていました。
少し向こうには港があり、そちらには大きな外国船がいくつか停泊しています。
「じいさんはあの港から仕事に行くんだ」
「そうか…」
客船は泊まらないはずの港ですが…まぁ上手くやっているのだろうと、アーチャーは目をつぶりました。
海面の揺れに合わせて、周囲の船がギシ…と小さく軋んでいます。
半分出払っているとはいえ、無数の船が同時に船体を鳴らしていますから、まるで木の葉ずれの音のようです。
(気配に気がつきにくいだろうな)
ここではそんなことを考える必要はないのに、身に付いた習慣をふと意識してアーチャーは苦笑しました。
「士郎」
ちょいちょいと手のひらで呼ぶと、駆け寄ってきます。
「何だよ」
「切嗣に魔術は習っているのか?」
「…そーゆーこと外で言っちゃ駄目なんだぞ」
士郎君は切嗣さんに、決してお家の外で魔術のことを話さないと約束しています。
「安心しろ、誰もいない」
「約束したし…」
困った顔をしましたが、請われると小さな声で話してくれました。
「今一番俺に合ってるらしいから、強化を習ってるんだ。でも上手く行かない…」
「だろうな」
アーチャーは対岸の町並みを見渡し、一点に目を留めました。
「士郎、あれが見えるか?」
「風船?…薬屋さんのマークが入ってる」
流石に目が良いな…とアーチャーは感心しました。
無意識に目に魔力を集めているのでしょう、普通の人には風船が見えるはずがありません。
よしんば見えたとしても、薬屋のマークなど見えるのは人外の業です。
白い風船は誰かの手から離れたのか、ふらふらと空を昇ってゆきます。
「一度しかやらないから、よく見ていなさい」
アーチャーがそう言うと、唄うような声が士郎の耳に届きました。
(アーチャーの呪文だ…)
低い声、言葉は士郎には少し難しく、しかし不思議なほど耳に馴染むその羅列。
そしてアーチャーが、ひゅっと天に腕を突き上げたとき、士郎にはそれが見えました。
(弓だ…!)
つがえたのは細身の矢。鏃は無く、黒羽の美しいものでした。
アーチャーをずっと外国の人だと思っていましたが、それは違うのかも知れません。
真っ黒なそれは形こそ洋弓でしたが余りにも大きく…人が引ける太さからはかけ離れています。
しかしそれは月のように丸く引き絞られました。
膨らみ上がった緊張の切っ先が、弾けた瞬間矢は空を切り、
「凄い…」
風船は割れていませんでした。
風船の紐の小さな握り紐、その輪に矢はひっかかり、風船は地に降りてゆきました。
風船の行方を看取って、士郎君がアーチャーを振り仰ぐと、真っ黒な弓はもう無くなっていました。
「アーチャー、今の何!?」
「私が使える魔術だ、お前も大きくなったら使えるようになる」
「教えてくれなきゃ無理だろ!」
がばっと飛びついてくる士郎君をいなしていると、どこから見ていたのか、ふらりと切嗣さんが現れました。
ランチボックスを掲げています。
「お腹空いちゃった、あっちの影で食べようよ」


何気ない一日でした。
遠くの芝生で、アーチャーと士郎君が犬と遊んでいます。
それを眺めていた切嗣さんに、お隣さんが「ご家族ですか?」と尋ねました。
「ええ」と、切嗣さんは答えます。

「よく似ていらっしゃる」

五月の風はどこまでも清かに吹き渡り、この休日がいつまでも続くかのように錯覚させます。
遠く遠くの二人を、目を細めて、ずっと見つめています。


帰り道、大橋の下を三人並んで歩いていました。
おれこれと話してくれる士郎君を挟んで、その相手をしているアーチャーと、ずっと微笑んでいる切嗣さんでした。
橋の中程にさしかかったとき、アーチャーが立ち止まりました。
夕日がその姿を照らします、赤く赤く。
「士郎」
「何?」
「私はここで帰ることにする」
「え…」
今帰ってるじゃないかと言おうとして、士郎君はわかりました。
わかったから、その身体を捕まえようと伸ばした手を、切嗣さんは後から掴んで士郎君を引き留めました。
士郎君は暴れませんでした。ぐっと拳を握って、唇を噛みました。
知っていたのです、お別れはすぐに来ると。
出も楽しいと思う気持ちは止められませんでした。
「昼に無理したね、あれがなければもう少し長くいられたんじゃないの?」
「何も残さないでのは本当に意味がない、後悔はしていない」
「そうかい、随分丸くなっちゃったじゃないか、あちらさんの思い通りになっちゃったね」
「知ったことか」
アーチャーがしゃがむと、士郎君の目は、またまん丸になって震えていました。
琥珀色の瞳は懐かしい二重瞳孔で、何を見ているのかよくわかるぶん、見つめられると息が詰まるほどです。
「士郎、すまない」
「…謝るなよ、馬鹿」
「私は意気地がないんだ、昔から」
そんなこと無いよと言った切嗣さんに、視線で小さく頼んで、アーチャーは一歩後ずさりました。
その身体に、夕日は赤く赤く透けて。
「アーチャー…」
また…と言おうとして士郎君は呑み込みました。
それを言ってはいけません、アーチャーがそれを一番怖がっているのが士郎君にはわかりました。
涙を一杯溜めた士郎君を、切嗣さんが後から抱きしめました。
「士郎、さようならは言えるかい?」
「う゛ー…」
唸っている士郎君に、切嗣さんは笑っていました。
「それじゃあ、士郎、切嗣の言うことはよく聞いておけ」
また一歩、後ずさればその姿は夕日に半ば溶け消えかけ、その影に切嗣さんは尋ねました。
「君にとって、僕は呪いでしか無かっただろうか」
もう表情は見えませんでしたが、アーチャーが笑ったと、士郎君にははっきりわかりました。
「親の愛とはそういうものだ、私もそのくらいはわかる歳になった」
潮風が士郎君の涙をこぼし、瞬間、もうアーチャーはいませんでした。


ゴールデンウィークは、明日でおしまいです。


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そのおしまいの一日、士郎君は朝から起きて、切嗣さんを起こして朝ご飯を作りました。
午前中に洗濯を済ませて、午後は切嗣さんにも手伝わせて家の掃除をして、夕方にスーパーへ行きました。
今まで通りの一日でした。
でも…
夕方の洗い物を済ませた士郎君は切嗣さんの隣に座って、イルカの湯飲みをちょっと見つめていました。
アーチャーの湯飲みです。
「今までずっと二人だったのに、なんでこんなに寂しいのかな…」
そんな士郎君の様子に、切嗣さんはちょっと考えているようでした。
「ああ、士郎、僕、忘れていたよ」
「何をさ」
「アーチャーにね、最後にお願い事されてた」
なんでそんな大事なこと忘れてるんだと士郎君は大変怒りましたが、切嗣さんはあははと笑って士郎君を膝に乗せました。
切嗣さんは、士郎君に簡単な魔術や暗示を掛けるとき、いつもこうします。
「何するんだ?」
「おまじない」
湯飲みはそこに置いておいてねと、ちゃぶ台を指しました。
切嗣さんの手のひらが温かいのは、魔力がそこに集まっているからです。
「何のおまじない?」
「寂しいのが忘れられるよ」
そう言って、切嗣さんは士郎君の頭に手のひらを乗せました。
「本当に大切なことはきっと思い出せるから、今はごめんね」
手のひらを降ろして、切嗣さんはちゃぶ台の上の湯飲みを指しました。
「これ、誰のだっけね、士郎」
士郎君は目をぱちくりさせると、
「ん…水族館で買ってきたやつだろ?誰のだっけ」
ひっくり返すと、名前が書いてありました。

”えみやしろう”

「ああ、士郎のだったんだね、大事な物だから早く片づけて…」
言いかけて切嗣さんは驚きました。
「士郎、どうしたんだい?」
士郎君は湯飲みを見て泣いていました。
もう憶えていない昨日にも、泣かなかった士郎君が。
「わかんないっ…けど、なんか…悲しい…」
泣きじゃくる士郎君を、切嗣さんは抱きしめました。
「大丈夫だよ、きっと会えるからね、きっと…」


こうして昔むかしのゴールデンウィークは終わりました。
きら星のような日々は過ぎ、切嗣さんは月の夜に、長いおやすみにいきました。
そして年月を重ね、士郎君はいつしか衛宮士郎になりました。
随分大きくなったと自分では思っています、けれど時々、どうしようもなく子供なような気がします。
…自分は一体、誰をこんなに意識しているのだろうと思うことがありますが、心当たりはありませんでした。


その夜まで。


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「あ…」
真っ赤な外套でした。
黒い肌、白い髪、大柄な身体。
そして、闇の中でも光る夕暮れ色の瞳です。
何かを思い出そうとして一瞬で忘れました、胸に広がった懐かしさを驚きで塗りつぶして士郎は叫びます。
「だ…誰だよ、お前!」
相対した男も男で、随分士郎に驚いているようでした。
深夜、夜、土蔵の中。士郎の肩は血で汚れ、扉の向こうの庭には、明らかに膨れあがる殺意があります。
「聖杯戦争…?士郎が…そんな馬鹿な、何を媒介に…」
ぶつぶつと呟いた男は、夜目きく瞳で士郎の周囲を見回し、それを見つけました。
「触るな!」
思わず伸ばした手を、士郎が払いのけます。
目を眇めますが、
「大事な物なんだ…」
その言葉に、笑いました。
「フン、十年ぶりかそこらか、久しぶりだなマスター、息災で結構だ」
「お、俺はお前なんか知らない、どっから湧いて出たんだ」
「その湯飲みの中からさ」
言われて、まるで十年前のような表情で湯飲みを見つめましたが、
「ば、馬鹿にすんな!」
流石に怒りました。
「おつむの方も少しは成長しているようで大変結構、ところで今正に生命の危機に瀕しているのではないのかね」
「そりゃ…」
言いかけた士郎の手を取って引き立たせます。
その足元に、躊躇いなくかしずきました。
「私のマスターは十年前からお前しかいない、士郎、お前は私のマスターだ」
左手の甲を引き寄せます。
「なんで名前知ってるんだ…?」
「あの湯飲みの裏の名前は、私の名前だ」
そう告げられた瞬間、士郎は泣きそうになりました。
ずっとそうでした、湯飲みの名前を見るたび、ずっと、なぜだか酷く悲しくなって…
「士郎、俺はお前のサーヴァントでいいか?」
士郎の手の甲を頬に寄せながら男が尋ねたとき、沸き上がった物狂おしさに突き動かされ、士郎は答えました。
「ああ、お前が俺のサーヴァントだ、アーチャー」
この男しかいない気がしました。
アーチャーは手の甲に素早く口づけして立ち上がると、ニヤリと笑い、
「なんだ、憶えているではないか、物覚えの悪いマスターどの、いかにも私はアーチャーだ」
とっさに洩れたセリフとはいえ、士郎は訳がわからず呆然としています。
アーチャーはそんな士郎を見て、おかしそうに笑っていました。
「なんだよ、楽しそうだな、俺も混ぜてくれや」
とはいえここは戦場、そして戦争の火蓋は切って落とされたばかり。
青いサーヴァントの言葉に、二人は現実に引き戻されます。
もう、ゴールデンウィークは終わりました。
しかし、
「昔なじみでね、旧交を温めていたのだよ」
「へぇ、そりゃ悪かったな」
「何、後でまたやればいいだけさ」
立ちふさがり手には白と黒の一対の剣。
剣の出現に驚く士郎に笑い。
「こっちは見せていなかったな、後で教えてやる、時に士郎、お前は弓だけは何とか形にできるのではないかね?」
「できる…けど」
昔からなぜかそれだけはできなければいけないような、そんな衝動に駆られて、黒い異形の弓を士郎は作り上げていました。
「無いよりマシだな、それでも持ってついてこい」
男は躊躇いなく踏みだし、士郎は後を追います。
ふと、気がつけば。


もう怖くありませんでした。


真白な冬の月の下です、始まったのは戦争で、今やっているのは殺しあいです。
けれど、
「私の後にいろよ…って言った先から隣に出るな」
「こそこそ隠れてられるかよ」
「全く…まぁ十年も待ったのだから仕方がないか」
(大きくなったら…)と、泣いた少年は、随分大きくなりました。
苦笑され、くしゃりとあたまを撫でられ、
「わかった…しかし死んでくれるなよ」
その言葉は、不思議なくらい士郎の胸に響きました。
「わかった、死なない」
アーチャーは満足そうに、青いサーヴァントに向き合いました。


月は冴え冴えと、真冬の風が運ぶのは血の臭い。
真暗な闇の底、戦場を走り抜ける二週間が始まります。
けれど二人なら、きっとおしまいに輝く日々に変わるでしょう。


GoldenWeekが始まります。


おわり






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